待ち望む信仰

《 イザヤ書 7章1節~15節 》
 この日曜日より、アドベントを迎えます。4回の礼拝を経て、私たちの置かれている状況の中で、主イエス・キリストの御降誕を迎える備えをしたいと思います。
旧約聖書のイザヤ書7-11章には、「メシア(救い主)預言」と呼ばれる箇所が三箇所あり、いずれもアドベントの時期に聖書朗読として読まれることの多い箇所です。今日の箇所もその一つで、特に7章14節に「インマヌエル預言」と呼ばれる箇所があります。今日は、当時人々が、どのような時代状況の中で、この言葉を聞いたのかをまずは見てみたいと思います。(この箇所は、後にマタイ福音書の中で、主イエス・キリストの誕生の記述に引用されています。マタイ1:23)
 ダビデ、ソロモンの後の時代になると、イスラエルは北と南に分裂し、南王国では、当時十二代目のアハズ王が世を治めていました。その頃、北王国は、シリアと同盟を結んで、南王国にも加わるように圧力をかけて来ました。1節、「エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった」というのは、包囲したけれども陥落するまでには至らなかったということです。北がシリアと同盟を組み、攻めて来たということを聞いた南王国全体は、非常に動揺したと言います。2節、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と言います。そして、南王国のアハズは、大国アッシリアに助けを求めて、自己防衛を計ろうとしました。
 その時、主がイザヤを用いてアハズ王に語り掛けました。4節、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」。ここで、「落ち着いて」という言葉に注目すると、元の言葉の意味には、「気を付ける、注意する」あるいは「見張る」という意味があります。たとえば、羊飼いが野宿しながら夜通し羊の番をしていたという、ルカによる福音書2章の話などを思い出すと、その場合羊飼いらは、敵に気を付けて、注意して、見張っているはずです。また、それは、敵だけではなくて、希望に対してもそうであると思います。東方の占星術学者たちも、同じように夜空を注意して見ていました。
 天体観測を趣味とする人は、星や月の動きを観察して、その出来事が、何十年に一回の壮大なスペクタクルであることを知り、この目で見たいと空を見上げます。ましてや、それが何百年に一回となれば、寝静まった町中の家々の戸を叩いて人々に教えてあげたい気持ちになるそうです。確かに、気がつかなければそれまでです。「待つ」ということの中には、そのようにして、注意深く目を凝らしているということが含まれていることに気づかされます。今日の箇所で、周囲は森の木々が揺れ動くように動揺していても、その中で「落ち着いて、静かにしている」という言葉は、何か自己暗示をかけるような内向きな言葉でなく、積極的に注意しつつ、主を見上げて、主の為さることに信頼し、恐れずに待つということであることが告げられています。アドベントを過ごす中で、この姿勢は、私たちにも示唆を与えられるものであると思います。
 さらにイザヤは、アハズが神に頼らず人間の力に頼っていることを指摘し、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と言います(9節)。ここで、「確かにされない」という言葉は、「立つことができない」という意味で、信じることが、即ち立つことであると言われています。その意味で「立つ」とは、信仰的な気概を感じさせられる言葉でもあると思います。
 例えば、新約聖書の中で、ベトザタの池のところで38年間病気で苦しんでいる人が横たわっていた話が出てきます(ヨハネ5章)。彼は、「良くなりたいか」と主イエスに声をかけられると、すぐに、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」とすぐに答えています。そのような彼に、主イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。
 彼は、池の水が動く時に、真っ先にそこに入った者に癒しが起こるという言い伝えを信じていました。また、さらに、誰も自分を池の中に入れてくれる人がいない、手伝ってくれる人がいない、と他の人に頼っていることが分かります。そのこと自体は悪いことではないかもしれません。助けてくれと積極的に頼むことは必要なことだと思います。しかし彼は、それさえあれば、という考えに囚われています。主イエスが目の前におられるのに、です。そのような彼に、主イエスは言われました「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。
 この、「起き上がりなさい」という言葉は、先の、「信じることによって、立つ、」というイザヤの言葉と重なるように思います。起き上がりなさい、立ちなさい、という言葉は、自立を促す言葉に違いないのですが、ここでは、他の思いを断ち切るような強い言葉であると思います。この人はそれまで、それさえあればと、目に見えるものに頼ろうとすることで頭の中がいっぱいになっていました。その人に対して、そうではなくて、信仰において立ちなさいと言われています。イザヤがアハズ王に語った状況も、アハズ王が他の大国の力に頼ろうとしていた時に、語られた言葉でした。
 これらのことを読む時に考えさせられることは、私たちにおいては、信仰の事柄というのは、ある意味で、日常生活の連続ではないということではないかと思います。例えば、よく言われることですが、日曜日に礼拝を重んじるということ自体が、日常のことから一度中断されることであると言えます。自分で何とかしようとしていることや、あるいは、何らかのしがらみのようなことなど、それらの束縛からいっとき中断させられることが、週に一度の安息日を守ることであるとも言えます。そのことを通して、私たちは、一度、諸々の思いから切り離されて、内なる信仰を築き上げられるということ。そのことが、預言者イザヤがアハズ王に、また特に、動揺しているイスラエルの民に告げたことではなかったかと思います。私たちが置かれている状況においても、信じて立つということの意味を改めて心に留めることができるのではないかと思います。
 さて、ここで、一つのしるしが与えられるという出来事が告げられています。それは、インマヌエル(神は我らと共にいます)という名の男の子が生まれるというものでした。「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。/見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(14節)。前後を読むと、成長して分別がつくようになる前に、周辺国の情勢も変わることが語られています。つまり、その時代状況の中で読むと、これはおそらく当時我が子を思う母親が、揺れ動く世に対して大きな不安をおぼえていた中で、神は私たちと共におられるという希望を、祈るような気持ちで子どもに名付けたのであろう思われます。
 しかしその後、不思議とその状況の中での出来事が、福音書に記されているようにイエス・キリストの誕生の預言の成就となり、人々にとって、イエス・キリストを通して「神が、我らと共にいてくださる」ということを知るしるしとなりました(マタイ1:23)。しかし、今日改めて、この言葉が最初に単に何もないところで語られたのではなく、人が生きる上で、多くの不安と動揺の中に置かれ、将来を祈るような気持の中で生まれた言葉であることを知ればなお、今日、私たちにも共鳴する信仰が感じ取れます。
 
 以前、ある教会で、子どもの教会のリーダーをされていた方が話してくださった話が思い出されました。その方は、お父様から信仰の感化を受けられたそうで、特にある時の出来事について話されました。それは、ご自身が戦時中の火災か何かで、河川敷に親子で避難した際に、クリスチャンであられたお父様がそこで、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」で始まるあの詩編23編を教えてくれた時のことが思い出されるということでした。幼い子どもとしては、さぞかし大きな不安の中に置かれた状況だったと、その様子を想像します。また、おそらくお父様としては、我が子に、どのような時も、「神、共にいます」ということを本当に祈りつつ、教えられたのだと思います。
 そのようなことを伺い、また考えさせられるのは、信仰というものが生起する時があるのではないかということです。小さな火がともるように、信ずるということが生まれる瞬間があって、それは、人の推し量ることのできない出来事でありつつ、確かに信ずるという不思議な出来事が、希望と共に人に与えられるということだと思うのです。また、そのことが、長い時代の流れの中で見た時には、無数の小さな点としてあり、それらがつながって線のように見え、旧約聖書の時代から長い歴史の中で、皆、「インマヌエル、神、我らと共にいます」という信仰を、与えられて来たのではないだろうかと思うのです。
 また、それは何か全自動で受け継がれていくというのではなくて、その時々に、ある人はその苦悩の中で、ある人はその喜びの中で、またある人はその思索の中で、「共にいてくださる」ということに触れて、生きた信仰が灯されるという神様の業が為され、そうして、無数の点がつながっていったのではないかと想像します。
 
 また、そこで大切なことは、私たちの信仰そのものも、似たような意味で、「日ごとに」ではないだろうかということです。その時、その時ごとに、主イエス・キリストの現実に触れ、神が共に「いてくださる」という、出来事としての御業に気づかされるということは、ちょうどあの、星を見る人が夜空を観察して、目の当たりにしている出来事に驚き、町中の人を起こして知らせたいと思う気持ちに似ているのではないかと思います。神、我らと共にいます、とのみ言葉を、私たちの置かれている状況において、生きた現実として受け止めることができますように。アドベント(待降節)を、そのような思いで過ごすことができますように、お祈りいたします。また、特に置かれている状況の中で、大きな不安や動揺をおぼえている方々に、今日、主が、近くいてくださいますように切にお祈りいたします。
 
(2021年11月28日 礼拝説教要旨)