栄光から栄光へと(墓前礼拝にて)

《 創世記 49章29~32節、コリントの信徒への手紙第二 4章16節~5章1節 》
 新型コロナウイルスのために長らく延期されていた墓前礼拝ですが、今回、久しぶりに集うことができました。私たちの教会では、例年ですと5月の新緑の季節に行なっていましたけれども、11月第一日曜日の「聖徒の日」を目前に控えたこの日に、墓前礼拝を行なうことができることも、なお意義深いことであると思います。墓碑に記されたお名前を通して、信仰の先達とその信仰を、そして何よりもその歩みに注がれた神様の恵みに心に留めることができ、また私たちにとっては、そのような意味で、教会における大切な聖徒の交わりの時であると思います。

 先程朗読されました旧約聖書の箇所では、アブラハムとサラも、イサクとリベカも、ヤコブとレアも墓に葬られたことが記されていました。この箇所に少し注目してみると、ヤコブのもう一人の妻ラケルは、ヨセフの次にベニヤミンを子として与えられた際、難産であったためにその後に召されてしまい、旅の途中で葬られました。しばし立ち止まって一人一人の人物に目を凝らすと、それぞれに定められた歩みの途上で悲しみもあり、また違う形での慰めもあり、創世記にはそのように人として生きる中で味わう事柄が記されています。また、私たちもそのことと向き合う書でもあると思います。そして今日の箇所では、これらの信仰の父祖を通して、私たちは人間である以上いつかは墓という場所に到着しなければならないという現実をも、示されていると言えます。
 しかし、私たちにとっては、今日、この場所が一般的な墓とは違う意味で、私たち信仰者にとって大切な場所であることを、礼拝を通して心に留めたいと思います。

 キリスト教の墓地に来ると毎回思うことですが、通路を歩きながら両側に立つそれぞれの墓石に刻まれた聖句を見つつ、「神は愛なり」、「信仰、希望、愛」といった言葉に囲まれているこの場所は、それだけでも他の墓地と比べて明るい佇まいであると思います。しかし時折、「キリスト教では、墓地に納めるのではなく、散骨はだめですか」という質問を受けることもあります。ご家庭のいろいろなご事情を考えてのことかもしれません。あるいはご本人の考えに基づく希望という場合もあるでしょう。散骨についての具体的な手続きというものを私自身はあまり詳しくないのですが、キリスト教では、それが否定されている訳ではありません。実際、ある礼拝式文に、散骨の場合の式文というものがあるのも見たことがあります。しかし、先ほど触れましたように、墓地という場所もまた、その人の信仰を証しし、また神様の大きな恵みを受けて地上の生涯を歩まれた証の場となるのだと思います。そしてまた、どのような形にするにせよ、私たちは、そこに愛はありますか、と問うことが大切なのではないかと思うのです。

 ある方は、家のお墓を守る仏教徒の方ですけれども、教会に通っていたクリスチャンのご伴侶様のために、その墓石のお名前のところに、受洗という文字を刻まれたということを伺いました。クリスチャンとしての歩みをされたことを尊重して、そのことを残したかったと仰っていました。そのことを伺いつつ、何とも愛が感じられ、素敵だなと率直に思いました。やはり墓地というのは、どのような形にせよ、誰かへの愛がそこから感じられるところなのではないかと思わされました。
 わたしたちにとっては、中心にキリストの愛があり、私たちに対するキリストの愛に支えられる形で、お互いの交わりがあります。その意味で、お互いへの思いも生と死の境目を超えるものであると言えることでしょうか。聖書に、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とあります(ローマ信徒への手紙14:8)。私たちは、主の愛に捉えられた者であることを、お互いに喜び、またその思いが、ある意味で死を越えても溢れ出るほどに、私たちの内に満ちている者でありたいと思います。

 さて、今日の新約聖書の箇所には、さらに大切なことが記されているように思います。コリントの信徒への手紙第二の4章では、私たちの「外なる人」に対して「内なる人」について記されています。私たちは、キリストに結ばれた者として、キリストの栄光の姿にあずかる者とされていると言われています。私たちは、日頃教会において、比較的広い意味で「日々新たに」という言葉を聞くことがあるかもしれませんが、使徒パウロによれば、それは、主の復活に結び付けられて、私たち自身が新たな存在となっていくということを意味しています。そのようにして、栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えられていくと約束されています。(二コリ3:18)
 そしてこのことは、やがて誰もがたどり着く、墓と言う場所に向かって転がっていくような、あの希望のない傾斜と、全く逆のことであるということです。そう考えると、これは、同じ墓であっても、そこで受けとめる事柄は正反対ではないでしょうか。キリストの愛に捉えられた私たち、キリストに結び付けられた私たちには、目に見えるものは過ぎ去っていくという現実とは別に、信仰の現実が成就することが約束されています。主の似姿に変えられていくという約束。そのことを、主イエスが、死に打ち勝たれた墓という場所において、私たちも共に集い、心に新たに留めたいと思います。今日、墓前礼拝のこの時、私たちも、どうかその信仰を新たにすることができますようにお祈りいたします。
(2021年11月3日 墓前礼拝 説教要旨)