離れた所からの祈り

《 コロサイの信徒への手紙 1章3~14節 》
 コロナの状況が少しずつ良くなり、私たちの教会でも、分散による礼拝ではありますが再び会堂に集うことができるようになりました。共に讃美の歌声を合わせ、祈る、お互いの姿に励まされます。
 そのような中、今日も聖書の言葉に共に耳を傾けたいと思います。これまでの礼拝では、使徒パウロが、多くの都市を訪れてキリストを宣べ伝えたことを見てきました。パウロは、その中でもエフェソには比較的長く滞在しました(使徒言行録19:10、20:31)。その間大変危険な目にも遭いましたが、パウロたちの働きによって設立されたエフェソの教会には、労苦と共に多くの実りがもたらされたようです(同20:17以下)。
 さて今日は、そこから芽吹いて、言わば新たな枝となった教会についての話です。パウロたちの、労苦多き働きを通してキリストを信じるようになった人々の中に、エパフラスという弟子がいました。彼は、恐らくエフェソにおいて信仰を与えられて、彼の故郷と思われるコロサイの町に福音を伝えました(コロサイの町は、エフェソから内陸の方へ川沿いにおよそ180キロさかのぼったところにある町です)。そのようにして設立したコロサイの教会の様子についてパウロは知らされ、彼は、直接には知らないコロサイの教会に宛てて手紙を書きました。手紙の冒頭に「パウロとテモテから」とあるように、実際にはテモテが書いたのではないか、あるいはその内容から後の時代の著者によるものではないかとも言われています。しかし今日は、パウロとコロサイの教会の関係性に注目してみたいと思います。まだ出会ったことのない人々に対するパウロの愛は、いったいどこから来るのでしょうか。
 パウロは、自分が関わったどの教会に対してもそうですが、まだ会ったことのないキリストを信じる群れに対しても、信仰と、そして愛のある交わりがその場あることを願い、コロサイにおいても、「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです」(4節)と、彼らがお互いの間で信仰に基づいた愛を大切にし、実践していることを喜んでいます。また、「“霊”に基づくあなたがたの愛」という表現が見られ(8節)、聖書には他にも、“霊の導きに従って”、また、“霊に蒔く者”という言葉があり(それぞれ、ガラテヤ5:16と、6:8)、実際に行なうのは自分たちなのですけれども、内側から何らかの発動があって、それが聖霊の働きによるものだと言っています。
 このことは、私たち自身の活動について考えると、例えば生きることにおいて、そこに人間の業しかないのであれば、苦しくなってしまうことが多いと思うのですけれども、それとは別の、聖霊の働きによる世界があるのだというのです。また続く箇所では、そのことが、育ちゆく木の成長としてたとえられています。「この福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」とあります(6節)。ここでは、成長することについての言葉が、収まりの良い結びの言葉として選ばれているのではなく、はっきりとしたたとえとして、ちょうど果実が実を結び、それが成長するようにコロサイの教会の群れの間でもその成長が起こっているといいます。その意味で、ここでは、主イエスが語られた、大きく成長するからし種の、神の国のたとえ話が思い出されます。それが、福音の持つ一つの特徴なのだと教えられています。
 ちょうどそのようなことを考えていた時、教会に一件の電話がありました。あるキリスト教の宣教団体から、各地の一つ一つの教会に協力を呼びかけているということで、その具体的な内容は、トラクト(キリスト教についての短い紹介や信仰の証しの文章が掲載されたリーフレット)を、全国的に配布したいので、教会に協力いただけないかというものでした。伺っていて、なるほどそれならば普段教会でもクリスマスやイースターなどの際には近隣に案内を配布しているので、コロナがしっかり収束した後にその活動と共に積極的に行なっていく方法があるのではないかと思った訳です。しかし、いろいろと説明を聞いているうちに、進め方として例えば目標設定の期限を設けて地図で色を塗りつぶすようにし、それを随時本部に報告して進めていくということでした。その時の率直な感想は、もちろん伝道は大切であり、そのために具体的に計画することは必要ですけれども、そのような方法では、イエスさまも息苦しくて仕方ないんじゃないだろうかということでした。万が一、目標達成型主義のようなところがあったとすると、その動機は人間にありはしないだろうかと思ったのでした。
 パウロは、エパフラスをコロサイに派遣して、そこにキリストの愛のある共同体ができたことを喜びました。エパフラスの労があってこそですが、ここでは、そのねぎらいの言葉は見られず、むしろ根本的に福音そのものの働きによって、大きく成長していくということが伝えられていて、パウロたちもそのことに励まされて、さらに祈りを篤くしました。そのような喜びの循環が、教会の世界にはあるということを、今日の箇所は示しているように思います。

 さて、パウロは、コロサイの人々のことを個人的には知らないのですけれども、彼らの信仰のために祈っているという点に注目してみたいと思います。彼は、人々の信仰が深められ、守られるようにと祈っています。そのことについて、さらに先の箇所で、もう少し具体的に次のように記しています。「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい」(2:1)と、パウロは、彼が会ったことのない人々のために労苦し闘っていると言います。
 これは、どういうことでしょうか。彼は、今獄中にいて多くの苦しみを受けつつも、そのことについて彼が深く思いめぐらした時に、この苦しみは福音のための苦しみであり、そうであるならば、その苦しみは福音の観点からは前進であって、誰かの益となるということであると考えているということです。ここでは、コロサイの人々が信仰において豊かにされ、愛によって結び合わされ、キリストを深く知るようになる、そのための苦しみであり、そのために自分は闘っているのだというのです。
 しかし、もしかすると私たちはそういうことを聞いて首をかしげるところがあるかもしれません。私の苦しみは私のものであるし、それ以上ではないと思います。その状況に対して、私がどのような態度や姿勢をとったとしても、基本的には、私の世界だけのこと、あるいは、私と神様の間だけのことだと思います。
 しかし今ここでは、その苦しみに対して他の誰かの存在が問題にされています。何かに労苦する中で、神様と私以外に、他のもう一人の存在を考えるとどういうことが言えるでしょうか。例えば私たちが、日々の置かれた状況の中で誠実に生きるということを考えた時に、日常の私の言動は誰か他の人の存在と全く関係なく、そこに距離があればなおさらのことだと思います。しかし、その誰かのために真実に生きようと思うということは、実際に私たちにもあることだと思います。また、そのことは、むしろ信仰の大切な要素とも言えるのではないかと思うのです。
 これは聞いた話ですが、アイルランドでは、夕方のある一定の時間を“天使の時間“と言い、しばし心を静めたり、祈りの姿勢をとったりする習慣があるのだそうです。由来など、その習慣について他に詳しいことは分からないのですが、その様子を友人から聞いたことがあります。例えば、気の合う仲間と集まり一杯交わして談笑していても、その時間になると、各々、神妙な顔をしてしばしたたずむとのこと。祈るようなしぐさでそれぞれ思いを馳せている様子で、きっと遠くの誰かのことや、家族のことなど、あるいは過去の出来事などを思いめぐらしているのでしょう。そして、その時間が終わると何事もなかったかのように、元に戻るという様子について聞きました。そのこと教えてくれた友人によると、そのしんみりした時間が、実にいいと言うのです。またそのことに深く共鳴した彼も、実は家族関係に破れを抱えていた部分があったということが同時に思い出されます。
 日頃、信仰ということを考えた場合、つい私と神様の関係に集中しがちなところがありますけれども、きっと私たちには他者に思いを馳せるという素朴な部分が備わっていて、そういう意味での距離を越えたつながりというものが、私たち自身の信仰の大切な一部分を形作っているのではないかと思うのです。またそのことは、意識され、思い出される必要のある要素ではないかと思います。

 さて最後に、今日の箇所では、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(13節)とあります。このことは、私たちが悪しき者の手中にあるのではなく、キリストの支配されるその御手の中に現に置かれているということです。これは、やがてそうなるという将来のことではなくて、今私たちは、既にそのようにあり、その中に移されているということが語られています。
 「善き力に、われかこまれ」と歌い出す讃美歌の歌詞が思い出されます(「讃美歌21」の469)。善き力に私は今囲まれているということを静かに思い、主イエスによる確かさを与えられる讃美歌です。私たちは、今コロナの状況が少しずつ落ち着いてきている中で、教会に集うことができるようになりましたが、まだ不安のある日常を一歩一歩確かめながら歩んでいることと思います。私たちが、聖霊に囲まれるようにしてその中に置かれていることを思い、そのことを感謝して、どうかこれからを歩んでいくことができますようにお祈りします。
(2021年10月10日 礼拝説教要旨)