語り直すことの気づき

《 エレミヤ書20章7~18節、ヨハネによる福音書21章1~14節 》
 ガリラヤ湖のほとりには、現在、二匹の魚と五つのパンの奇跡を記念した古い教会あり、以前この教会が迫害を受けた際には、日本でもニュースになったことがありました。通称「パンと魚の奇跡の教会」と呼ばれるこの教会には、パンと魚をモチーフとした紀元五世紀頃の美しいタイル状の装飾があることが知られています(迫害を受けた際にはこの遺物は無事で、現在では損傷を受けた建物も修復されたとのこと)。教会においては、昔からパンと魚と言えば、それだけで主イエスの溢れる恵みを思い出させ、代々にわたって教会に集う人々の励ましとなってきました。
 時代時代において、福音書の内容が語られ、そのつど主イエス・キリストの恵みが、そこから立ち上がるようにして人々に新たな気づきを与える―ヨハネ福音書21章の箇所も、そのような話であると思います。今日も、そのことを願いつつ、聖書の箇所を見ていきたいと思います。
 ヨハネによる福音書の最終章であるこの章では、復活された主イエスが、弟子たちの現実の生活の場面において現れてくださったという内容が伝えられています。主イエスと弟子たちに関する多くの話がガリラヤ湖やその湖畔を舞台とする内容ですが、それらは主イエスが十字架にかかられる前の出来事でした。しかし、この章の内容は、十字架の後に復活された主イエスが、ガリラヤ湖において弟子たちに現れたという場面です。
 弟子たちは、ガリラヤでお目にかかれるとの約束の言葉を信じ、希望を持ってそこにいたのかもしれません。しかしペトロが、「わたしは漁に行く」と言った時には、やはり、どことなく力無く、気落ちしているように見えます。漁をするために船を出した結果、「その夜は何もとれなかった」という弟子たち。徒労感と空しさを覚える現実が、重くのしかかっています。彼らも実際の生活を営む必要があったでしょう。主イエスに全てをかけて従った者たちが、大切な人を失ったわけですから、大きな希望の消失であったにちがいありません。そのような中、何も取れない網を、何度も打っては引き揚げるというその重さが心身にこたえたのではないかと思います。
 聖書の中で、人が打ちひしがれ、希望のない状態に置かれるということについて、それが個人である場合の内容は、新約の福音書に多く出てきますけれども、旧約聖書の場合、それが特にイスラエルの民の経験として見られます。旧約のイスラエルの民は、その歴史の中で、何の希望も持てない状況を経験しました。出エジプトの際や、バビロン捕囚がまさにその出来事であったと言えます。彼らは異国の地において捕囚の生活を強いられ、先の見えない状況でした。
 主イエスの弟子たちと、預言者たちとを直接比べることはできないかもしれませんが、しかし、内面の葛藤という点で、示唆を与えられるものがあると思います。例えば、預言者として立てられたエレミヤは、苦悩し、それを言葉にしています。彼は、神様から御言葉を与えられ、それが彼を一層苦しめたようです。彼は、預言者の中でも特に自分の内面を吐露している人物です。エレミヤの言葉をいくつか見てみると、例えば17章に次のようにあります。
 「御覧ください。彼らはわたしに言います。「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい」と」(17:15)。彼は、主の言葉は真実であり、力があることを知っていますが、それゆえに周囲の現実とのはざまに立たされています。彼の苦悩はさらに続きます。彼は「呪われよ、わたしの生まれた日は」と言い、「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか」と、嘆き、自分をも否定していきます(20:18)。自分と神様との一対一の世界が言葉にされていて、それだけに、かえって神様との親密さというものが伝わってきます。おそらくこの嘆きというのは、信仰と裏と表の関係にあるのではないでしょうか。人一倍、神様を深く信頼する人物であるゆえの嘆きであると言えます。
そして、「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(20:9)と言い、御言葉を前に、自分の負けを認めています。主よ、あなたの勝ちですと、神様を強烈に意識して、自分がもはや降参するしかないという状況です。考えてみると、もし自分との関係性が遠ければ、おそらくそこまでの感覚にはならないのではないでしょうか。その場合には自分自身というものを堅く維持していると思います。しかしこれは、近さゆえの、負けです。これは、神の前に飾りではない、またいたずらにそうするのではない、敗北宣言です。そして、それは相手を信頼した上での、自己への敗北宣言ではないでしょうか。
 今日の新約聖書の箇所において、「シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」と言います(21:7)。湖に飛び込んだ理由は、自分が裸同然であったからでした。もちろん、服を着ていないためという理由もありますが、さらにここでは、自らの内面というものを主の前にさらけ出した時に、自らを否定したくなる、そういう思いで思わず湖に飛び込んだのだと言えると思います。主との関係が近いゆえに、また、信頼する相手であるゆえに、自らの負けを認め、そうして弟子たちは新しい朝を迎えました。
 彼らは、主イエスに対して、もはやどなたですかと問いただそうとはしなかった。つまり、もはや何の疑問を抱くことなく、復活された主と共にいる現実に、共々に満たされていた様子を聖書は告げています。
今日のこの聖書の箇所からは、二つの事が見られるのではないかと思います。一つには、この話は、既に教会に向けて書かれているという点です。たとえば、「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」(11節)とは、あらゆる欠乏に対して、主の恵みの大きさを伝えていると言えます。と同時にここでは、宣教という働きによって全世界の国々の人々が、イエス・キリストを信じるようになるということが暗に示されています。特にキリスト教に対する迫害の厳しい状況について考えると、当時の教会は、その意味するところを深く悟ったことではないでしょうか。人々は、かつての主イエスの出来事を改めて思い起こし、この大漁に示されている主の現実は、今もなお然りであるとの思いを確かにしました。身も心も萎縮していた人々は、再び大きな励ましを与えられたはずです。何の希望もないと思われる夜も、主イエスの御業は確かにあるのだと伝えられています。
 そのことを考える時に、教会というところは、主イエスが愛しておられる場であるということを思わされます。網が破れていなかったとは、それを守る主がおられるということです。今日、教会は、コロナの大きな影響により大きな制約や打撃を受けていると言えます。交わりは分断され、対外的なことだけでなく教会内のことについても活動を中止せざるを得ない状況が、思えば一年以上も続いています。日本だけでなく、世界中の教会がそのような状況にあります。場合によっては、コロナがきっかけで関係性がギクシャクしてしまった教会もあると聞きます。
 そういった中で、教会の業であるその働きを示す網は傷つき、この禍によって大きな穴が開いてしまったかのようにさえ思える状況にあります。しかし、その網が破れていなかったということは、今日の状況と照らし合わせる時に、まさに励ましであり慰めであります。主イエスが、それを保証しておられると言えないでしょうか。
 そしてまた、もう一つの点は、この新しい始まりはガリラヤという生活の場から始まっているということです。注目するべき大切な点であると思います。ごくありふれた日常の風景の中での出来事。大きいことを考える前に、まずは、足元からと伝えるかのように、その場所に主イエスは現れてくださいました。そこから新しい朝が始まるのだと言うかのように、「朝の食事をしなさい」と言って元気づけられる主が、開始地点を示してくださったのだと思わされます。
 これは想像ですけれども、弟子たちは、後に大きな働きをしていくことになりますが、その際に、実際のペトロたちというのは、自分たちのかつての漁師としての視点を持ち続けていたのではないかと思います。人々の前で堂々とイエス・キリストを伝え、目覚ましい活躍をしていきますが、全く別の人間になった訳ではなく、やはり良い意味で、過去の自分の経験や視点も聖霊によって用いられていったのではないかと思います。ガリラヤに生き、漁師として生活をした者としての視点は、自ずと物事の考え方や判断に、また特に宣教の大切な視座として生かされていったのではないかと思います。ガリラヤという場所から始まったということ、その内容が今日の聖書の箇所に残されたことに、そのような弟子たちの様子を思います。
 何も取れない夜に象徴されるような、先に希望の無い状態を経験した弟子たち。しかし彼らに示されたのは、生活の場において、そこに根差したところから、また生活の現実を通して、御業が示されるということではなかっただろうかと思えます。またそういう場所を、主イエスがまさに恵みを分かち合う場として選び、示してくださったのではないでしょうか。そのことを、私たちも心に留めて歩んでいきいと思います。
 目の前の現実に埋没してしまうような時、私たちにとっては夜と思えるような時、どうかその現実の場所において主イエス・キリストの溢れる恵みに気付かされますように。またすべての教会が、この時期、主の御力に支えられますように切にお祈りいたします。
(2021年4月18日 主日礼拝説教要旨)