光と杯

《 ヨハネによる福音書 11章1~16節 》
 ラザロのよみがえりの記事について、もし私たちがこの話を基に絵を描きなさいと言われれば、やはり物語の最後の場面でラザロが墓から出てくる場面を描くことでしょう。福音書の中でも、特に復活のイメージが強い話であると思います。しかし、この話の前半(1~16節)を読むと、むしろこの話は、主イエスの御受難と深く関係していることがわかります。弟子たちの言葉にもそのことが表れているように、いわば受難曲の最初の音が聞こえるような箇所であると言えるでしょう。今日は、この話の特に前半から、主イエスを中心に見ていきたいと思います。

 主イエスと弟子たちにとって、エルサレムに向うということは危険を伴うことでありました。弟子たちが非常に心配しているように、ユダヤ人たちに捕らえられることは目に見えていて、そのことを恐れていました。「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(8節)とあります。そういったことが、このラザロの出来事の背景です。
 その状況において、イエスの愛しておられたラザロが深刻な事態になっていました。マリア、マルタが人を遣わして、離れた所にいたイエスに助けを求めます。彼らはベタニアというエルサレムにほど近い村にいて、姉妹たちは主イエスが来られるのを祈り、待っていたわけです。そして同時に、主イエスにとっては、自ら「命を捨てる」と繰り返し言われたように、このラザロの出来事は、「飲むべき杯」であったと言うことができると思います。杯とは、定められた御心です。友が生きるために、御自分がそこへ向かい、そしてそのベタニアまで行けば、もうすぐそこには向こう側に自分が付くべき十字架が見えている、という状況でした。
 主イエスは、神様が一連のことを既に準備されておられることを悟ったのでしょう。マリアのことに関する説明では「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」(2節)と説明が書かれていて、このことは重要なことでありました。本人のマリアも自覚していなかったかもしれませんが、聖書によれば、それは葬りの準備のためであったと、神様のご計画の上での「必然」であったことが記されています。そのようにして主イエスは、一つ一つのことに神の御心と御計画を悟り、それを受け止め、祈り準備していたことでしょう。そのことが主イエスにとって「飲むべき杯」であったと思います。

 さてここで問題になってくるのは、主イエスが二日間出発されず、そこに滞在されたということです。何を思われていたのでしょうか。後から物語を読む者は話の筋を知っているので、そのことで奇跡がより際立つようになるためであると説明するのですが、しかし主イエスは果たしてそのような理由でただ時間の経つのを待っただろうかと疑問にも思います。友と呼ばれ愛しておられたラザロのこと、またその姉妹たちのことであることを思えばなおさらのことです。それはむしろ、主イエスが神様の御心を悟り、受けとめていく時ではなかったでしょうか。神の必然を受け止めるのに必要な時間ではなかったかと想像いたします。そして、そのことを選び取っていかれたということを、「なお二日間同じ所に滞在された。それから弟子たちに言われた。もう一度、ユダヤに行こう」という行間に見ることができるのではないかと思うのです。
 私たちは、日ごろ祈りを通して神様に様々な願い事をするのですが、と同時に御心を受け止めることができますようにという祈りをすることも、やはり大切であると思います。なぜ祈るかと言えば、それは私たち自身が、神の御心と一致していくために必要な作業であるからではないでしょうか。整えられるとは、そのようなことだと思います。

 少し話は変わりますが、以前幼稚園をお手伝いしていたことがありました。毎年この時期になると、秋の芋ほりの遠足があり、それが終わるとクリスマスの準備に取りかかります。少し気が早い気もしますが、その季節になればページェントの役決めに始まり、歌やセリフの準備をします。多くの親御さんたちにとっても初めての経験で、そこでページェントの説明をさせていたくことがありました。言ってみれば、劇を見る前の予備知識のようなことでしょうか。
 特に大切な一場面として、皆さんもご存知のように受胎告知があります。その際の、小さな天使さんとマリアさんのやりとりのセリフは、ルカ一章に基づいていて、「おめでとう、恵まれた方」で始まり、そして「恐れることはない」と告げられ、そして、最後にマリアさんの「お言葉どおり、この身になりますように」のセリフの余韻でその幕は閉じます。この「お言葉どおり、この身になりますように」は英語の聖書では、レット・イット・ビーと記されていて、その説明にその世代のお父さんお母さんは、同じタイトルの曲をよくご存知で妙に納得された表情をされていました(最近のお父さんお母さん世代は、どうかわかりませんけれども)。いずれにしても、レット・イット・ビーというのは、自分の気持ちはともかくも、御心がなりますようにということです。そのことを、様々な場面で自分に言い聞かせるようにして一つ一つを受け止めていくための言葉であると思います。

 子どもたちの場合は、成長するに従って本当に様々な経験を重ねていく中で、希望通りになることもあれば、そうでないこともたくさん経験することでしょう。そのつど、何度となく「御心どおり、この身になりますように」と祈り、また周囲で見守る者も共にそう祈り成長させられることであると思います。そしてこのことは、子どもたちだけでなく、やはり、どの世代であっても同じではないでしょうか。この身に起こることについて、御心通りになりますようにと祈ることは、実際には勇気のいることでもあると思います。しかし、その際に、同時に常に語りかけられている、あの「恐れることはない」との御声に、ゆだねていく信仰というものを、聖書は全体を通して伝えていることであると思います。そして、主イエスご自身もまた、神様の御心を受け止めて行かれたということを、常に心に留めることが大切であることを思います。

 十月の第一日曜日はプロテスタントの多くの教会で世界聖餐日として定められた礼拝で、世界中の教会がパンと杯を受けることの意義を改めて思い、文字通りそれを味わう礼拝です。私たちも、それに与あずかる時、主イエスの十字架の贖あがないを示すその杯を頂くのですけれども、と同時に「杯を飲む」とは、わたしたちも主イエスに従って、日常の中での一つ一つの御心を受け入れる、という意味をも含むはずです。主イエスの杯と、私たちが日頃経験する杯とは決定的に異なるのですけれども、しかし、そこに関係性を見出していくことは、信仰の大切な在り方であると思います。それは、身に起こる一つ一つのことを、信仰をもって、受け止めていくということではないでしょうか。
 こういったことは、何か重苦しいことのように思うのですけれども、聖書には常に「恐れることはない」というメッセージが流れています。今日の箇所で言えば、主イエスは決心をされ、御心を選び取られて「ユダヤに行こう」と言われた後に、心配する弟子たちに鍵となる言葉を言われます。それは、あなたがたは「光の内にいるではないか」ということです。具体的には、「昼歩けばつまずかない」と言われていて、ここではさらによく読むと、「人の内に光がある」または「ない」(10節)という話に置き換わっています。これはどういうことかというと、弟子たちにとって、今は主イエスが共にいる。つまり、光がある。しかし、いなくなられた後には、人の内側から照らす光というものを与えられるということをおっしゃっているのです。
 「私たちの内側には光がある。」
 これは、極めてヨハネ的な表現だと思います。たとえば他の福音書では主イエスがこの地上を去られた後、私たちの内には聖霊が与えられるというのですが、同じことをヨハネは、内側に光が与えられる、と言うのです。また、ヨハネは、「光は暗闇の中で輝いている」(1章5節)と、今なお輝いていると、現在形で記すのです。

 以前、ホームにおられるある方とお話していたところ、「晴れている日はあまり好きじゃないねぇ」とおしゃっておられました。特に秋晴れの日の夕方、日が沈む頃に無性に寂しくなるのだそうです。毎日お一人でその時間を過ごされることを想像すると、お気持ちもわかるような気もいたします。しかし、そのような時にも、私たちには聖書の御言葉が与えられていることを常に思い起こしたいと思います。
 旧約聖書には、終末的な預言として、その日にはもはや闇はないと言います。「夕べになっても光がある」とは、ゼカリヤ書14章7節言葉です。預言ということですから、ここでは先の将来のことですけれども、しかし、主イエスを信じる私たちには、将来のことではなく、今、ここに、光が輝いているとヨハネ福音書は告げています。その意味で、「夕べになっても光がある」との信仰は、現に今、私たち伝えられていることであるのです。
 私たちには主イエスという光があり、その光が私たちの内側に与えられて「今日も光がある」ということを聖書は告げています。どうか、このことを、どのような時にも思い起こし、励まされて歩みたいと思います。
(2016年9月25日 礼拝説教要旨)