自らの心で(世にあって立つ信仰)

《 申命記30章11~14節、ルカによる福音書17章11~19節 》
 私たちは、このコロナの状況になり、長く自宅での礼拝を強いられていますけれども、その中でどういうことを自覚し、また大切にしていけばよいのでしょうか。今日の箇所からは、そのようなことについての示唆を与えられるように思います。
 今日の新約聖書の箇所では、人々に対してイエス・キリストが奇跡を行なわれた後の様子が記されています。主イエスは、重い皮膚病を患っている十人の人を癒されました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)と言われたのは、当時、病人が完全に癒されたことを宣言するのは、祭司の役割であったためでした。十人とも皆、そこへ行く途中に癒されるほどに、恵みは十分でありました。その内の一人が、神様を讃美しながら帰って来た様子について、彼は、「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(16節)とあり、心からの感謝を捧げています。また、「この人はサマリア人だった」(同節)とは、同じルカ福音書の10章にある、「善きサマリア人」の話が思い出されます。ここでは、主イエスが、その大いなる御業を、ユダヤ人もサマリア人も隔たり無く憐れまれ、示される姿が伝えられています。
 そして、感謝を捧げるその人に対して、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。この〝立ち上がって〟という言葉に、その人の自立を促す主の思いが込められているのではないかと思います。信仰によって、立ち上がって、生きていくこと。そのことを主は求めておられるのではないでしょうか。

 たとえば、似た話として、ルカ福音書8章にある、ゲラサの人の話が思い出されます。墓場にいて悪霊にとりつかれた人が主イエスに癒された後、彼は、「お供したいとしきりに願った」(38節)といいます。ここでは、私にはそうすることが必要なのですという意味ですが、主イエスは、それを拒まれました。そして、その代わりに、彼を家族や人々のところへと送られます。
 あるいは使徒パウロも、フィリピの信徒への手紙の中で、獄中にいる時に、自分は一方では世を去って、キリストと共にいたいと熱望していると言い、しかし、彼らのために、「だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」(1:24)と言って、人々のために遣わされていきます。
 一つ一つの状況は異なりますが、イエス・キリストと共にいたいと熱望しても、それぞれが、課題を担わされて遣わされているということは一貫していて、このことは、やはり先ほどの〝立ち上がって、行きなさい〟ということと同じことが言われているように思います。

 さて、このルカ福音書17章の、十人の内の一人だけが、主イエスのもとに帰って来たという話には、二つのことが伝えられているように思います。その一つは、癒して頂いた人々の様子が示しているように、私たちは、与えられている恵みについて感謝することもあれば、そうすることを、忘れてしまうこともあるということです。一概には言えないかもしれませんが、日本のクリスチャンは、洗礼を受けて三年が経つと教会から離れていってしまうという統計をかつて聞いたことがあります。そう考えると、やはり、現実のこととして考えさせられはしないでしょうか。信仰を維持することについて、具体的な意識を持つことが大切であると思わされます。そして、私たちは、日々の生活の中で、祈りによって、恵みをより自覚することができますし、そのようにして、主の恵みを確かに受けていることに気づかされて歩みたいと思います。
 ここで注目したいもう一つのことは、主イエスがここで、人に対して、その足で立ち上がって行きなさいと言ったことです。また、「あなたの信仰が」と言われていることも、既に、その人の中に信仰があることが語られていて、そこに意識が向けられていると言えます。
 よくキリスト教は、弱い者の宗教だと言われてしまうこともあります。それは、確かに、自らの弱さを自覚して神に依り頼み、良い意味で依存するということにおいては、その通りだと思います。しかし、それはやはり、一面的な見方だと思うのです。私たちは、一見、依存しているようでいて、自立した存在であるということを、聖書は伝えていると思うのです。一見、主と共にいることを願いながら、しかし、現実の世にあっては、実際にはあたかも自分一人でそこに立ち向かうかのように、そこで最善を為そうとする者だと言えるのではないでしょうか。遣わされているというのは、そのようなことなのだと思います。

 ずいぶん以前に牧師会の集まりで、年長のある牧師が、「与えて下さるのは神様だけども、実際準備するのは自分だからね」と言われたことを思い出しました。いかにも信仰一筋の牧師が説教についてそう言ったので、思わず皆が、意外だと顔を見合わせて笑ったのですけれども、考えて見れば、これは牧師だけではなく、やはりキリスト者として現実を生きていく上では、同じことが言えるのではないでしょうか。
 主に依り頼んで歩むということと、自分の足で立ち、生きていくということは、決して矛盾することではないと思うのです。神様に、委ねていくことが、弱い者のすることだからということではなく、むしろ、信仰ゆえに、自らの与えられたものによってより力強く立っていく、また為していくということが正直な信仰者の姿ではないでしょうか。
 そしてまた、自らの足で立っていく時に、やはり心に留めておくべきことがあると思います。それは、あたかも自分一人であるかのように立ち向かっている時に、大切になってくることだと思います。今日の旧約聖書の箇所を見ると、その中に次のように記されています。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30:14)。このことは、私たちの内側に向けての励ましの言葉であると言えます。御言葉が、どこか海のはてのように遠く彼方にあるのではなく、私たちの内側にあるのだから、それによって生きていくことができることが伝えています。特に、申命記のこの箇所では、律法を実行するのが難しいと嘆くイスラエルの人々に対して、いや、それは既にあなたの体の一部となり、またその心にあると言われています。そして、使徒パウロは、この箇所に触れて(ローマ10章)、御言葉はキリストであるとして、天に昇って、キリストを言わば引きずり下ろしてくる必要もなければ、底なしの淵に下って、そこから引き揚げてくる必要もない。「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある』これは、わたしたちがのべ伝えている信仰の言葉なのです。」と言います(10:8)。
 その要点は、「イエスは主であるという信仰」そのものが、内側に与えられているではないか。また、それを口で言い表しているではないか。人々にのべ伝えているではないか。イエスこそは主であるという信仰を与えられ、それによって誰でも救いを与えられる。それらのことが、私たちを既に信仰によってしっかりと立つ者としていると伝えています。ですから、何か、キリストには手が届かないから苦しいということではなくて、そしてまた、自分には何もないから常に神頼みということではなくて、人に救いをもたらす信仰が、自らの内にある。その確信と自覚を与えられて、現実の状況に積極的に向かっていく信仰を、私たちは与えられていると言えます。

 私たちは、今、こうして自宅にて礼拝を守る状況に長く置かれていますけれども、そういう中で、殊に意識するのは、やはり教会との物理的な距離だと思います。あるいは、信仰の交わりから遠のいてしまったような感覚ではないかと思います。これは、私たちの信仰が問われる時期という意味において、ある種の与えられた試みとも言うことができるかもしれません。
 そう思うと、今日の主イエスの言葉には、私たちの状況において語り掛けられているものがあるように思います。私たちの現状においても、今日の箇所で帰ってきた一人のように、主の大きな恵みが注がれてあることに、気づかされる心を大切にしたいと思います。そしてまた、現実の世の歩みにおいては、実際には独りであるかもしれません。しかし、その中で、与えられた、内側に確かにある信仰によって〝立つ〟ことを主は望まれ、また、今日もそうであるようにと声をかけておられるのではないでしょうか。その主の言葉に励まされて、歩むことができますように、祈りたいと思います。
 このコロナの状況の中、病により、あるいは経済的な状況より、具体的な支えを必要とされているお一人お一人に、どうか今日も、イエス・キリストの癒しの御手が届いてくださいますように切にお祈りいたします。
(2021年2月14日 礼拝説教要旨)