新しい流れ

《 マタイによる福音書 3章13~175節 》
《 ガラテヤの信徒への手紙 4章6~7節 》
 「足あと」という詩は、教会などで比較的よく知られている詩だと思います。次のような内容の詩です。
 主と二人で歩んで来たこの道、足跡は二人分。でもいつのまにか一人分だけ、消えてなくなっていた。主よ、あなたはどこへ行っておられたのですか。
私は共にいる。あなたが最も辛いと思っていた時には、あなたを背負って歩いていたのだ。(原作は、M・パワーズ)
 自分とは別の足跡が、自分に寄り添って歩き、また自分を担ってくれているということを歌った詩です。信仰生活を振り返った時に、この詩は目に見えない支えや導きが確かにあったことを思い起こさせてくれます。
 ヘンリ・ナウエンは、オランダ出身のカトリックの司祭で、アメリカの最も優れた大学の神学部で教鞭をとっていました。しかし彼は、学者というよりは、出会う一人一人を大切にする牧会者であったとも言われ、教派を問わず感化を受けた人々は少なくありません。また、彼自身の歩みは、常に求道的であったと言えます。例えば、南米で最も貧しい人々と共に生活する中で神学を追及するなど、置かれた状況に甘んずることなく、何が自分の為すべきことかを常に考え、自身の進むべき道を求めた人でした。そして最終的に、彼は、ラルシュという障がい者のためのグループホームで共同生活をします。これは、誰も予想しなかったことだったと思いますが、彼は常に導きを信じて歩みました。そういうヘンリ・ナウエンは、多くの黙想の言葉を残し、その中に、次のような内容の言葉があります。
 「神の霊との交わりの内に生きる時、私たちは証し人にほかなりません。なぜなら、どこへ行き、誰と会おうとも、神の霊が私たちを通してご自身を現わされるからです。」
 自分とは別の、目には見えないけれども不思議な働きかけが確かにあり、それによって、自分一人の考えや判断では辿り着かなかったけれども、今の私がここにいると改めて意識すること。そのことはまた、将来について考え、また新しい歩みを始めようとする時に、一つの大切な示唆を与えられる言葉であると思います。
 今日の聖書の箇所、ガラテヤの信徒への手紙の中では、子とされている者には「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊が授けられているとあります。御子の霊、つまりイエス様の霊を、私たちは受けていて、目には見えないけれども、その御子の霊によって神様を呼び求めたり、また導かれたりしているということが記されています。ちょうどイエス様が洗礼を受けて、霊が降ったように、私たちには御子の霊が与えられて、私たちの歩みはその御子の霊によって導かれていると言えます。
 考えてみれば、その働きかけが自分とは別であるということは、ある意味で救いではないでしょうか。というのも、正直に自己を見つめると、自分の突き進む道は、どうしても、独りよがりになったり、自分のためだけの狭い視野になってしまったりするところがあると思うのです。そして、救いであるのは、自分とは別の流れによって、私たちは導かれてきたし、また、これからもそれに委ねることができるということだと思います。
 イエス様には霊が鳩のように降り、そのようにしてご自身もまた、聖霊を受ける必要があったということは、驚きではないでしょうか。主イエスもまた、その目に見えない力に、より頼む必要があったと言えます。また、神様が上より与えられたという意味で、これらの働きに必要なものを備えられたという象徴的な箇所であると思います。ましてや私たちは、日々置かれている場所において、自分の力によってではなく、上からの助けによって為すということが大切であることを改めて教えられはしないでしょうか。また、自分の力で解決しようとするのではなく、祈りつつ聖霊の力により頼んで為すということが、私たちの信仰の基本の姿勢であると言うことができるのではないかと思うのです。
 さて、続く箇所を見ると、主イエスが洗礼を受けられた後、すぐに水の中から上がられたと書かれています。何気なく書かれているように思える箇所ですけれども、この「すぐに」という言葉は、福音書の中で多く用いられている言葉です。例えば、主イエスが四人の漁師たちを弟子にする場面では、「漁師たちは、すぐに網を捨てて従った」、また、「すぐに船と父親とを残してイエスに従った」、とあります。やはり、その動作が強調されているように聞こえます。同じように、主イエスが「すぐに」水の中から上がられたという点に注目すると、私たちはその動機について知りたくなる言葉だと思うのです。これが主イエスの公の生涯の一番初めの出来事であったことを考えると、その理由は、それから後のことがイエスを待っているかのような状況ではなかったでしょうか。世がイエスの働きを待っている、それゆえの「すぐに」ではなかったかと思います。
 ずいぶん以前、ある神学校の卒業式礼拝に参加した時のことを、ふと思い出しました。卒業生にとっては、そこから出発して新しい歩みを始めようとしている時で、また、そこに共に集って祝う多くの人々の中には牧師たちもいて、自分たち自身も初心に帰るような気持ちでそこに座っている中で、次のような説教が語られました。
 その時の説教者は、少し型破りの牧師で、先日ある映画を見たとのこと。娯楽映画で、牧師や神学生の皆さんはご覧にならないかもしれないけれども、と前置きをしつつ、それは刑事ものの映画で、ある有名なセリフがあり、その場面を皆さんの代わりに見てきたと。今となっては古い映画ですけれども、それは、刑事たちが長々と議論をしていると、主人公である刑事が、「事件は現場でおこっているんだ。会議室ではない」と、机をたたいて出ていく名場面。その勢いよく、立ち上がって飛び出していく場面をもって、現場という、人々の生きることに関わる者であれという説教でした。ある意味で、現代の教会のあり方を問うているとも言えます。議論自体がどうこうということではなくとも、常に人との関わりのあるその現場に身を置くことを忘れてはならないという意味で、印象に残る話でした。
 今日の箇所で、イエス様は、洗礼を受けられた後にも、「すぐに」人々のところへ向かわれました。ここには、主イエスの、人々に対する熱意の表れがあるのだと思います。そして肝心なことは、その内側にあるのは、愛の発動ではなかったかという点です。そして私たちには、洗礼を受けて御子の霊を受けているという事実があり、またそれによって導かれているということを考えると、私たちの原動力もまた、主イエスから来ていると言うことができるのだと思います。また、逆にもしそれがなければ、簡単に枯渇してしまう私たちではないでしょうか。
 主イエスは、その意味で、模範を示されたと言えます。「これは、私たちにとってふさわしいことである」と、とまどう洗礼者ヨハネにも、そう言われて洗礼を受けられました。また、その時に響き渡った「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」との言葉を心で聞く時に、主イエスは、神様から愛を受けていて、そして、その流れが、私たちに一人一人におよんでいることを思うことができると思うのです。
 洗礼というのは、元々は水の流れるところで為されました。当時の人々の場合は、ヨルダン川で洗礼が行われ、上流にさかのぼっていけばヘルモン山があり、そこには降り積もる雪が一年中あって、その水源となっていると言います。また、山頂からはパレスチナ全土が見渡せる眺めがあり、そこに立てば、ヨルダン川や支流の隅々に注がれる恵みも見ることができるはずです。きっと神様がご覧になっているのはそのような光景ではないかと想像します。そして、「これはわたしの愛する子」と言われるイエス様を通して、その恵みが注がれている。私たち一人一人も子とされ、その流れを受けている。そのことを、心新たにして歩み出したいと願います。
 どうか、新しい歩みを踏み出すにあたり、主イエスが受けられたみ恵みが、私たち一人一人に、主イエスを通して注がれていることを心に刻んで歩み出すことができますように。また、常に私たちが、その湧きいずる恵みに与り続けて歩むことができますように。
(2020年1月5日 新年礼拝説教要旨)

※『今日のパン、明日の糧』ヘンリ・J・M・ナウエン著、嶋本操監修、河田正雄訳、聖公会出版、p.216