呼ばれるという幸い

《 マルコによる福音書 10章46~52節 》
 教会では、今日(11月24日)は収穫感謝日の日曜日、またそれに合わせて「謝恩日」を迎えました。自然の恵みとその幸を与えられていることに私たちは日頃から感謝しますが、改めて収穫を与えて下さる神様を心に留めて感謝をささげることは大切であると思います。また、同時に私たちは、信仰的な実りを与えてくださる神様に感謝をすることも大切です。昨日(11月23日)は、勤労感謝の日でしたけれども、教会では「神様の働き人」に心を留めて感謝をささげるというところに「謝恩日」は由来していると言えます。
 そのような中、今日は、マルコによる福音書の、イエス様のことを求めて止まない一人の盲人バルティマイについての話を共に見ていきたいと思います。彼の住む町にもイエス様がやってこられました。人々の話しているイエス様についての噂を聞き、イエス様はかならず自分の座っているこの道を通られるはずだ、そう彼は思い、ずっと待っていた様子です。そして、人々のざわめきとともにイエス様の気配が近づいてくるのが分かると、彼は必至で叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」人々が彼を黙らせようとしても、彼はこの機会を逃すまいとさらに声を大きくして叫びました。
 イエス様もその声に気がつき、ご自分の許に来させ「何をしてほしいのか」、と尋ねられます。あえて聞かれるイエス様。主イエスは、通りがかりの群衆の一人に目を留められます。多くの群衆がいて、また先を急いでいるからと主イエスは即座に癒しの業をなさることもできたと思うのです。他の箇所にあるように、きっとイエス様が触れられたりすれば、それだけで彼は癒されたと思います。しかし、イエス様は足を止め、あえて「何をしてほしいのか」と、その群衆の中の一人に向き合われました。一人の人に目を留められて、イエス様の方も集中しておられるようです。
 全てをご存じであるけれども、人の側が求めることや絶えず祈ることを、主イエスは望んでおられると言えます。人々は、バルティマイに対して黙るように言いましたけれども、私たちの場合を考えた時、私たちにとって、神様を求めたり、期待したり、また祈ったりすることを妨げるものは何でしょうか。一つには、「そうしたところで何も変わらない」という私たち自身の悲観的な思いがあるかもしれません。特に、世の中の「何かしたところで、どうせこの世の中は変わらない」という風潮が蔓延するところでは、私たちの信仰も冷え込んでくるように思います。しかし、バルティマイには、信仰の温度というものがありました。率直に求める姿、そこに、主イエスは、盲人バルティマイの信仰をご覧になりました。
 マルコ福音書を見ると、これまでイエス様の数々の不思議な業によって癒された人々がいます。それは、例えば人々の前に吊り降ろされた中風の人や、重い皮膚病を患った人、また安息日に会堂でなえた手を癒された人や、イエス様に「エッファタ(開け)」と言われて耳が聞こえるようになり、話せるようになった人などです。それらの人々は聖書では「ある病の人」という無名の人として出てくるのですが、今日の箇所はどうでしょうか。彼は、道端に座って物乞いをしていた人であったと記されている通り、当時の様子からすれば、彼もまた「ある人」ですまされても不思議ではありません。しかし、ここでは盲人バルティマイという名が記されており、またその名前から分かることとして、彼はティマイという父親の子であると説明を加え、福音書記者ができるだけ詳しく書こうとしているのが分かります。
 福音書について最近言われることとして、目撃者証言という観点があります。これは、一般に、ある出来事の目撃者がその事実を他の人に伝えるようと語る時に、具体的な人物に言及して「あの人もその場に居合わせたから聞けばすぐにわかるはずだ」と言うことがよくあると思いますが、福音書にもそれに似たような目的を持って書かれている箇所があるのではないだろうかという観点です。今、バルティマイは当事者ですけれども、あえて名前が記されていることについて、そこに著者の伝えたかった何らかの気持ちがあると想像すると、その人物についてより興味がわいたり、親近感を覚えたりします。盲人バルティマイは、おそらく後にもイエス様と弟子たちのその一行と行動を共にしたと思われます。そして誰かがバルティマイと言えば、「あぁ、あのバルティマイか」と返事が返ってくるような、皆の中でよく知られた存在であったはずです。また、最後の節を見ると、彼は「なお道を進まれるイエスに従った」とあります。マルコ福音書の流れからすると、そのイエス様の道とはエルサレム入場、そして十字架への道へと向かっており、道という言葉に意味深さをも感じられます。いずれにしても、皆があのバルティマイもイエス様のお許しの中で、仲間に加えられていったのだという証しが、皆の間で共有されていたのではないでしょうか。人々が黙らせようとしてもイエス様のことを叫び続け、そしてイエス様も彼を呼んできなさいと言われたバルティマイ。彼もまた、イエス様に呼ばれました。
 「呼ぶ」という言葉に注目すると、聖書のギリシア語では、招く、招待するという意味の言葉と、声を用いて呼ぶという意味の別の言葉があり、後者の方は、英語のテレフォン、ヘッドフォンなどのフォン(phone)の元の言葉です。例えば聖書の中で「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。……羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ福音書10章3〜4節)という箇所でその言葉が用いられています。そして、この箇所でも同様に、イエス様が単に手招きされているというのではなく、その声で呼んでおられるということが分かります。
 バルティマイは、ここで「安心しなさい。立ちなさい。イエス様がお呼びだ」と言われているのですけれども、「立ちなさい」というのは、実際に彼が常日頃道端で座って生活をしていたからでした。生まれつき目が見えず、それまで物乞いをしながら路上で座り続けた彼の生涯でした。地上の土ぼこりの立つ場所、人々が通り過ぎればそれが舞い上がる道端に彼は座り、文字通り低い所で生活をしていました。その彼に、まず「安心しなさい」という言葉がかけられます。イエス様は、不安がる弟子たちに「安心しなさい」「平安あれ」とよく言われましたけれども、ここではそれとは別の言葉が使われています。ここで言われたのは、「勇気を出しなさい」という意味の言葉です。ですから、彼はその言葉に力づけられ、勇気を出して立ち上がることができたということになります。また、特に、主イエスが、自分を呼んでおられることに大きな喜びを与えられました。それまでの人生の中で、いったいどれだけの人が彼を見て見ぬ振りをして、あたかも存在しないかのように通り過ぎていったことでしょうか。また、何か用があっても、身振り手振りでであったりあごで指図されたりするようなこともある中で、このお方は自分に目を止め、自分の存在を認め、そしてバルティマイと自分の名を声に出して呼んでくださったことに、彼は歓喜したのでした。彼は、上着を脱ぎ捨て、躍り上がったといいます。そこには、彼の大きな喜びと、また彼自身の勇気を出した意志も、込められていると思います。そのことを主イエスはご覧になり、バルティマイに対して「あなたの信仰が、あなたを救った」と言われたのでした。
 神様の救いの業というのは、神様の一方的な恵みの業であるのですけれども、ここで思わされるのは、勇気を出しなさいという言葉に応える意志というのも大切であり、イエス様はそれを信仰としてご覧になっているという点です。また、今、「立ちなさい」という言葉に注目すると、この言葉は聖書の中で大切な言葉であることがわかります。例えば、あの人々の前に吊り降ろされた中風の人にイエス様は「起きて、床を担いで帰りなさい」と命じられました(マルコ福音書2章11節)。この「起きよ」という言葉も同じ言葉です。イエス様の、その言葉自体に力がありました。そして、この言葉は「復活する(させる)」という意味の言葉でもあります。この「立ちなさい」、「起きなさい」は、教会で私たちが「死人のうちよりよみがえり」という時と同じ言葉です。その意味で、私たちを本当の意味で信仰において立たしめるもの、それはひとえに主の言葉であることが分かります。私たちが、立つことができるのは、そこに復活の力が与えられているからであるのです。
 バルティマイが、今日の箇所において、実際に声をかけられたのは人々からでした。「安心しなさい。立ちなさい。」と言ったのは、直接の主イエスの言葉ではなかったという点で間接的で、間に人が入っています。名前が書いていないので、実際には弟子であったのか、それ以外の人であったのかはっきりとしませんが、それが誰であったのかということは問題ではないようです。しかし、バルティマイにとっては、本当に必要な言葉をかけられたという意味で、その働きはなくてはならない働きでした。今日は、「謝恩日」を心に留める主日ですけれども、そのような観点から改めてこの箇所を考えてみたいと思います。思えば私たちにも、教会へと私たちを導いた人、また信仰へと招き入れてくれた人があり、具体的に名前を挙げて思い出すことができると思います。特に、出会いを与えられた牧師や伝道師、あるいは宣教師などの働きに思いを馳せることは大切であると思います。もしかすると、もうその人の姿は私たちの前にはないかもしれませんが、その働きは、私たちにとってやはりなくてはならない働きであったと改めて思います。
 また、一つの教会ということもそうですが、より大きなキリストの教会全体を考えた時に、その働きが途切れることなく連綿と続いているということは、決して当たり前ではないはずです。その時々に、働き人が起こされ教会の大切な働きが継続的になされているというのは、不思議なことです。教会が倒れることなく立ち続けているのは、やはり神様の為さる業であると思わされます。教会に確かに流れる、主の復活の力をおぼえ、今日は「謝恩日」として感謝したいと思います。そして、ちょうどバルティマイに人の働きを通して主の言葉が伝えられた時に、それは単なる情報としての言葉ではなく、実際にバルティマイが立つことができたように、力ある主の御言葉が、今日も教会を通して、私たちの内側に生きて働きますようにと願います。
 バルティマイは、人々の土ぼこりの中で生活をしていました。人間の社会の現実の中で、人と人との営みから出るほこりや、時に泥をも身に浴びるような生活の場というのは、象徴的な意味として、私たちも経験することかもしれません。そのような現実の生活が私たちにもあります。しかし彼は、その中で主を呼び求め続け、そして立ち上がることを得ました。そして「バルティマイ、主がお呼びだ」との声に、彼は歓喜したのでした。私たちにおいても、今日もまた生きて働かれる主のお言葉に、特に「立ちなさい」と言われるその御声に、新たな力を与えられたいと願います。
(2019年11月24日 礼拝説教要旨)