祈りのこころ

《 ダニエル書 3章13~18節、ルカによる福音書 18章1~8節 》
 その昔、大航海時代に、ある器具の発明がその大航海を可能にしたといいます。アストロラーベという、金属の分度器を重ねたような器具で、今では博物館か、骨董品屋などにありそうな、見た目にも魅せられる道具です。実際には、航海しながら、ある一定時間ごとに、それを使って天体を観測して現在の自分の位置を「確認する」ことができました。特にそれが従来のものと違って画期的であったのは、水平線が見えなくても、天体観測だけで現在の位置を確認できるという点であったといいます。つまり、夜など、辺りが暗い時に、その威力を発揮した器具でした。
 今日私たちは、日常を生活する上で、また時に大事な局面などで、どういったものを頼りにしているでしょうか。現在地であれば、スマホの機能を使って正確に把握できる時代。それでも世間では、今日の運勢のような占いを気にすることもあるようで、時々そういうものを目にします。実際にどれだけ信じているかは別としても、そのようにして自分の心細さを解消したり励ましたりしてくれるものを、人々は手探りで探しているようです。言ってみれば、今日においても、人々は、現実を生きるためのアストロラーベを必要としているということかもしれません。
 そう考えると、私たちにおいては、信仰というものが、どれだけ私たちの歩みを確かなものにしているかと、逆に意識させられます。また、進むべき道を模索する中で、祈りというものが、先に向って漂うことなく進む上で、常に欠かすことのできないものではないだろうかと改めて思わされます。

 現代の都会的な雰囲気というのは、「祈る」といったことについては、意外とあっさりしているかもしれません。日常的には、全般に、神様を信じることであるとか、祈るということについては、どことなく冷めた空気があると思います。神様を信じるなんてあほらしい、そういう声もなくもありません。その意味では、そういう風潮にあって、今日の聖書の箇所に出てくる、「気を落とさずに」祈りなさい、というイエスの言葉は、なお響いてきます。
 考えてみれば、祈りというのは、人間だけがするものです。本来、人に備わっているものと言っても良いかもしれません。困った時の神だのみ、と言いますが、やはりそれは、人間らしい行為だと言えないでしょうか。特に祈りは、人間が他者のためにできることであり、世界中で、宗教を問わず人々は祈っています。
 昔、小学生の作文コンクールの作品の中に、こういう内容があったのを思い出しました。重い病気になった友達がいて、その友達のために一所懸命に祈った。彼はどう祈ったかというと、プールの中に飛び込んで、水の中で息を止めて、念ずるように祈ったと言います。それほどに必死だったという祈りのことが、その作文から伝わってきます。やはり、人はいざという時には祈る存在であり、また、なぜ祈るのだろうかと問われれば、本来人に備わっているからと言わざるを得ないように思います。
 しかし、大人になると、いつしか祈ることを忘れてしまうということもあるのではないでしょうか。忙しさに追われ、さらにまた、あれもこれも自分の手で何とかしなくてはいけない。また、人前で弱さも見せられない。そいう状況に置かれると、確かに、祈るのは後回しになっていくような気がします。そのような時、主イエスが、なお祈りなさいと人々を説得する姿は、より印象深く心に残ります。

 さて、今日のダニエル書の話は、ダニエルの三人の友人たちの話です。彼らは、今、バビロニアの王であるネブカドネツァルに仕えていますが、本当は、イスラエルの民として真の神を信じる人々です。そして、繰り返し出てくる彼らの名前、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴというのもバビロン名で、改名させられた名前です。これは、帝国支配に見られる常套手段で、そのようにして、彼らは若い頃から、自分というものが確立する前に、強制されて外の世界が自分の中に入り込んでしまう状況に置かれています。本当の自分が何者なのかという部分が、揺らいでしまうような状況にもかかわらず、彼らは、自分というものをしっかりと維持しています。ダニエル書では、彼らの動じない心というものが、一貫しているのです。
 特にこの箇所では、金の偶像を拝むようにと、ネブカドネツァルが命じている状況にあり、また少し前には、彼らを中傷して陥れようと進言する人々も登場しています。しかし、そういった中で、どれだけ圧力がかかっても、自分の信念というものを持ち続けた彼らの様子が記されています。
 今日的には、こういう金の像を拝めと命じられるような具体的な例は、私たちの周囲にはありませんが、しかし、いろいろな価値観に流されてしまったり、つい周囲に合わせてしまう生き方を、私たちはしていることはないでしょうか。そういったことに対して、私たちが一つのぶれない軸をもっていることが極めて大切であることを、この話は示していると思うのです。
 アメリカのある学者が、現代人の特徴というものを研究して、現代の人は、昔の人と比べて「仕事熱心」ではなくて「人間熱心」になっていると言ったといいます(D・リースマン『孤独な群衆』p114)。どういうことかというと、何事においても他者との関係ばかりにとらわれ、また自分が切り捨てられないために、相手の期待というものに過度に重きが置かれた結果、純粋に仕事自体にではなく、人に対して熱心になっていると。
 実際には、既に1950年代に指摘されたその傾向が、今日、なお加速しているのかもしれません。相手の顔色を見るという状況は、現実には必要な場合もあります。しかし、それも行き過ぎると、「自分というものがなくなってしまう」ということになりかねないのではないでしょうか。他者がその人の「偶像」になる時、その人自身が消えてなくなってしまう、ということがあり得るのです。そして、上の学者の指摘は、自分たちの社会全体は、果たして大丈夫だろうか、という問いを、今なお与えているように思います。
 すでに触れたように、ダニエル書にはその一貫した内容として、決して流されない一つの軸を持った生き方が記されています。そして、私たちも、生きて行く上でそういうものが必要ではないだろうかと問いかけてきます。自分は、今どこにいて、またどうすれば良いのだろうか。特に辺りが暗く見えて自分を見失った時には、座標のような軸が必要になります。そして私たちにとっては、教会に来て十字架を見上げ、自分の位置を確認しながら歩むことができると思うのです。そのようにして、神様の、私たちに対する切なる思いを受けながら、主の前に、今の自分の位置を照らされて歩むことができるのではないでしょうか。
 イエス様は、祈りについてのたとえを話された後に、果たして、地上に信仰を見出すであろうか、と言われました。人々の信仰が、常に生きたものであるかどうか、ということを問われているのだと思います。そしてそれは本質的には、祈りが聞かれた、あるいは聞かれなかった、ということに左右されないものであるはずです。私たちの日常の歩みには、実に多くの出来事がありますけれども、それらは、私たちの神様を信じる心に、なんら影響を与えない――そういう、気丈な心を持つことを、願っておられるように思うのです。それは、ダニエル書でも言われている通りです。「神様は、自分たちを窮地から救ってくださることができるし、そうしてくださる。また、たとえそうでなくとも、ご承知ください。王様の拝む神々に仕えることも、金の像を拝むことは、決していたしません」ときっぱりと言い切っています。
 私たちのことを、どのような時にも揺らぐことなく一貫して支えるものがあり、それによって私たちは、どのようなことがあっても揺れ動くことなく生きていくことができる、そういう信仰の境地というものがあるということを、これらの御言葉は、今日私たちに示してはいないでしょうか。どうか私たちの歩みが、無目的なものでなく、神様によって意味のあるものとさせて下さいますように。祈りのごとに、主の前に自らの位置を確認し、力強く歩むことができますように。
(2019年7月14日 礼拝説教要旨)

※参考図書:『孤独な群衆』(D・リースマン/みすず書房)、『窮地に生きた信仰』(近藤勝彦/教文館)