祈るこころ

《 ルカによる福音書 11章1~13節 》
 今日与えられた箇所は、主イエスが弟子たちに「主の祈り」をお教えになる箇所です。そしてその後に、「祈り」について、譬たとえを用いて語られています。今日は、その全体を通して共に教えられたいと思います。

 主の祈りを見ると、前半は、神様に対しての祈りです。すなわち、「み名があがめられますように」、「み国がきますように」。またルカでは省略されていますが、「み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」。これらは、神様を中心とした祈りです。そして、後半は私たち自身の日常のことにいついての祈りです。特に「われらの」、あるいは「われらに」とあることからも分かるように、「私の」という個人の祈りではなく、常に「わたしたち」と複数形なのです。この私たちをも含む共同体としての祈りであるのです。教会、地域社会、この国のこと、また全世界のことを「わたしたち」と言葉にして、「日ごとの糧を与えたまえ」、「罪を赦したまえ」と執り成しを祈ります。いわば教会が代表して祈っているような祈りであって、ここに教会の大切な務めがあると言えます。
 主の祈りを細かく見ていくことは、また改めての機会を与えられたいと思いますが、今日、特に目を留めたいことは、「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という箇所です。ルカによる福音書では「ゆるすごとく」ではなく「ゆるしますから」とあります。しかし、「ゆるしますから」とは、もちろん条件ではありません。私たちが他者をゆるすことによって、はじめて神様は私たちを赦してくださるというのではなくて、これは神様の赦しというものを私たちが少しでも想像できるように、という意味での「ゆるすごとく」であり、ちょうど何々する「ように」ということです。同じことが言える、類似のことが言える、という意味です。

 さて、私たちが神様に祈る時、はたしてそれは聞かれているのだろうか、また、そもそも祈りなんて無駄ではないのか、と思う時はないでしょうか。私たちは、あまりに打ちひしがれることが度重なると、そういう心境にもなることがあるかと思います。主イエスは、そういう状況に際して、ある譬えをもって語られました。

 夜中に寝ていると、近所の人が頼みごとのために戸を叩いている。旅行中の友人に出すものがないため、パンを貸してほしいという。そして、その人が執拗に頼めば必要な物は何でも与えるでしょう。
 求めなさい。そうすれば与えられる。
 探しなさい。そうすれば見つかる
 門をたたきなさい。そうすれば開かれる。

 この譬えは、何を伝えようとしているのでしょうか。それは、祈りの「執拗さ」というものだけが強調されているのではないと思います。むしろ、人間の場合は不完全なもので、応える側の状況、(この場合は、夜中だから起こさないでほしい、などといった状況)によって左右されるのですが、神様はそうではない、ということだと思います。人の場合でも、子どもが魚を求めるのに蛇を与えたり、卵を求めるのにサソリを与えたりする者はいない。ましてや、私たちを自分の子どもとされる神様は、豊かに与えられるお方であるのだと。ですから、神様は何でも執拗に祈れば自動的に与えてくださる、というお方ではなくて、私たちに既に何が必要かを十分にご存知で、この私のことを私以上に知っておられるお方である、ということであると思います。

 私たちの現実には、時に何度目をさましても変わらぬ現実の中で朝を迎え、祈ってもまた裏切られるのではないか、という不安とやり場のない思いがあり、祈りに無力さを抱えることがあるのですけれども、それでも、なお、主は祈るようにおっしゃるのです。最善を与えてくださる方に信頼して祈ることができるということは、私たちが本当に行き詰まった時に慰めとなる御言葉ではないでしょうか。「ましてや、あなたがたの天の父は良いものを与えてくださる」そのことを、聖霊が保障してくださるというのです。

 以前、機会があって、ローマにあるカタコンベを訪れたことがありました。1世紀から2世紀にかけて、キリスト教徒に対する大迫害があった頃、人々は地下に特別な礼拝所をつくりました。私は、幸い研修として、1世紀のキリスト教についての説明を受けながらそこに入る機会が与えられました。中に入ると気温はひんやりとしていて、ちょうど人がかろうじてすれ違うことのできるくらいの曲がりくねった地下通路を下って行くと、所々に通路が枝分かれしては小さい礼拝堂のような空間がありました。一番広いところは、二、三十人は集えると思える空間でした。そこで当時の人々は、迫害から逃れ、肩を寄せ合うようにして、祈りと讃美を捧げていたということが、その薄暗い空間から感じ取れました。そして、所々に、当時の壁画が残っているのですけれども、羊飼いの絵であるとか、描写が凝っているものから、比較的素朴な魚の絵、そして舟の碇いかりのマークがありました。今で言えばロゴというのでしょうか。それらは描かれた当時のままで残っていました。
 魚というのは、ギリシア語で「イエス・キリストは神の子救い主である」という内容を表していますが、もう一つの「碇」というのは、信仰を表しているのです。荒波にもまれて浮き沈みしている時に、私たちはその中で決して流されたり、動じたりすることの無いものを与えられているのです。聖書に「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した碇のようなものである」と、ヘブライ人への手紙6章19節に書かれている通りです。それを当時の人々は、信仰の表現として壁画として残し、それを見る後の世代の者にも、その信仰を証ししました。
 私たちは、日々の歩みの中でそのような安定した碇というものをもっている必要があるのだと思います。風が強ければ強いほど、また波が高ければ高いほど、その信仰の碇を下ろす、ということが必要であると思うのです。私たちにとって、祈りとはそのようなものではないかと思います。

 聖書は常に、私たちに祈るようにと、いいます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケの信徒への手紙一、5章16節)。ここで実は、その直後に「霊の火を消してはいけません。」とあるのですが、祈ること、また喜んでいること、感謝することが、私たちの内に与えられた「霊の灯」を灯し続けることだというのです。つまり、目には見えないけれども、私たちに与えられた聖なる霊というものを大事にするということだというのです。

 あるドイツの牧師、ヘルムート・ティーリケという牧師は、主の祈りについての連続の説教をしました。それは、第二次世界大戦の最中のシュトゥットガルトという町で毎週行われましたが、日々空襲に脅かされる状況で、礼拝の場所も何度も変えなくてはならない状況でした。その連続説教がついには終わる頃には、町に教会堂が一つも残っていなかったといいます。それでも、人々は毎週、主の祈りの教えを聞き、またそれを祈り続けました。それは、礼拝を捧げ続けるということで、霊の灯火が消されないように主の祈りを祈り続けた、ということも出来ると思います。そしてまた、常日頃祈る主の祈りが、現実の中で、再び切なる祈りとなったのだと思います。祈ることで、祈る者自身も整えられたのではないでしょうか。特に主の祈りはそのような祈りであるのです。

 私たちを取り巻く状況の中で、私たちも、もう一度祈りの生活によって、整えられたいと思います。また、誰かのために祈り続けるということは、キリスト者、また教会に与えられた役目であることを心に留めて今週も過ごしたいと思います。家族のため、友人のため、社会やこの世界のために、私たちもまた、祈りによって、霊の灯火を灯し続けたいと思います。
(2016年7月24日 礼拝説教要旨)