衣替えの季節

《 ガラテヤの信徒への手紙3章27節 》
 今年は、梅雨が長引き、どうもはっきりしない天候が続いています。日中は暑くても、夜になると厚地のものを出してきて、ふと7月も中旬とは思えない服装をしていることも多いのではないでしょうか。そんな中、今日は「着る」という言葉に注目してみたいと思います。新約聖書には、「キリストを着る」という表現が出てきます。これは、洗礼を受けてキリストに結ばれたということを言い表した言葉で、パウロという人が、当時のクリスチャンたちに対して自覚を促すために、手紙の中で用いた言葉です。

 「キリストを着る」という表現について、今日を生きる私たちに、どのように響いてくるか考えてみたいと思います。私たちは日常それぞれの場所で過ごしていますが、その中で、「私はキリストを着ている」と自分に言い聞かせる時、一つには、それは、自分に小さなプレッシャーを与える言葉であるように思います。つい自分に甘えが出てしまうような時には、特にそうではないかと思うのです。ある人は、他者の目というものが、良い意味で自分の自覚を成長させると言いました。同じように、一人でいる時にも、また人々の中にいる時にも、自分は、キリストを着ているのだという自覚によって、ぴりっと背筋を伸ばすような思いになります。

 二つ目には、この言葉は、私たちに安心を与えるものであると思います。私たちが、世の現実を渡り行くとき、そこは必ずしも生きやすい環境ばかりではないかもしれません。場合によっては、自分を守る必要もあります。そのような時、私たちがキリストを着ているということは、ある意味で鎧を着るように私たちが社会の諸々から守られていると言うことができます。日頃当たり前に生きていることが多い私たちですが、ふと、実はキリストに守られて日常を生活している、という気づきを与えてくれる言葉でもあるのではないでしょうか。

 そして三つ目には、「着る」とは、何か自分を覆い隠すということではなく、古きを捨てさせてくださる、と言うことができます。詩編30・12に「粗布を脱がせ」という言葉があり、そのことと重なるように思います。粗布は、羊やらくだなどの黒い毛で作った粗末な布で、当時、人々は喪に服する時や、悲しみのしるしとして着用しました。また、脱ぐというのは、解く、解放するという意味で、そう「させてくださる」ということが言われています。キリストを着せてくださるとは、同時に、人生の粗布を私たちがまとうような時にも、それを必要な時に必ず解いてくださるということではないかと思います。神様のご配慮の中で、私たち一人一人ふさわしい時に、そのような衣替えの時を、備え、与えてくださるーその言葉に慰めを与えられます。
(2019年7月14日 野の花の集い ショートメッセージ)