傷ついた癒し人

《 ルカによる福音書24章36~43節、コリントの信徒への手紙一12章12~27節 》
 教会がチャーチと呼ばれるゆえんである語源は、主のもの(キュリオスのもの)という言葉にあると言われます。教会の真ん中に立たれる主イエスの存在が厳然とあるーそれゆえにチャーチ(教会)であると言えます。当時の教会も、単なる人の集まりではなく、主イエスが共におられる共同体であるとの意識を大切にしていたことが、聖書からも伝わってきます。今日の箇所は、復活されたイエスさまが、気がつけば弟子たちの真ん中に立っておられたという記事です。「イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(36節)という、その「存在感」を表していると思います。
 そして後の世代も、この箇所を繰り返し聞きながら、何をもって教会であるのかを考え、主イエスが存在感をもって中心に立っておられる、それが教会であると思ったのではないかと思います。
 さて、ここで改めて疑問に思うことは、イエス様は復活されて、何もかもが回復されたのですから、傷のない体でもよかったのではないだろうかということです。神のすばらしさ、その栄光を現わすのですから、なおさら神々しい姿、たとえば、山上でイエス様の姿が真っ白く光輝いたという聖書の話のように、その容姿も美しい姿で現われて、そのように神様はすばらしいことを成し遂げられたということを、伝えられてもよかったと思います。しかし、今、弟子たちの前に現われたイエス様は、「まさしくわたしだ」と言われ、ご自身であることを示すために、手や足の傷をお見せになり、触ってよく見なさいとまで言われました。弟子たちは、それによって、誠にイエス様だと分かったのです。ここに、何か重要な意味が込められているように思います。

 使徒パウロは、教会に手紙を書きましたが、その中でもコリントの教会に宛てられた手紙は、当時の教会の課題について最も具体的に記されている書です。「これこれの問題については」とパウロが、彼らの質問に答えるような形で対話式になっている部分があり、言わば電話越しに、相手の様子が想像できます。また、そこから、パウロの具体的に教会を建て上げることについての熱意が伝わってくる手紙です。
 そして、彼は、教会に集う人々に対して、自分たちは今、何を築き上げているのか、ということを明確にする必要がありました。特にコリントの場合を見ると、その社会の背景と無関係ではないようです。当時、コリントの社会というのは、ローマによって一度破壊されて、再建されている途上の都市でした。ようやく街並みがその見栄えを取り戻し、人々はそれを誇りに思っていました。また、人口も急に増えて活気づいてきて、賑わう町。スポーツの国際大会も定期的に開かれ、競技者が地中海から集い、特にコリントの人たちは、馬を扱う競技に長けていたことが、優勝者の名前の記された遺跡からも分かっています。強さを誇る町でもありました。
 そのような中で、パウロはテント職人の仕事をしていました。アキラとプリスキラという夫婦が最近ローマから、そこに移り住んで、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで一緒に仕事をしたと、使徒言行録に記されています(18章)。そのように人々が賑わう町には、宿泊所の数も必要で、おそらくその需要に押されて、テント職人は忙しい仕事であったと思います。そしてパウロは、そういった社会の状況を自らの仕事を通して、肌で感じていたはずです。人々が、一旗揚げようと集まってくるその町で、皆が熱気に包まれるようなコリントという町で、教会はどうあるべきかを考えていたのだと思います。仕事が繁盛して世の上昇気流のようなものを感じ、逆に何か矛盾を感じながら、この町にキリスト者として生きるとはどういうことかを、きっと黙々と仕事の作業をしながらも、考えていたのではないかと思います。
 そして、コリントの世の中では、同じ価値観で社会が一色になっていることを思ったのでしょう。パウロは言います。もし、全体が目だけでできていたら、耳はどうしたらよいのでしょうか。もし、全体が耳だけでできていたら、鼻はどうしたらよいのでしょうか。全てが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう、と(12章15~17節)。パウロは、目だけからできた生き物、耳だけからできた生き物という、お化けのような存在を示して、それがいかに気味悪いものであるかということを言います。
また、町を歩けば、美しく修復されていく立派なコリント式の建物を見、そしてまた、そういう見栄え良くきらびやかなものに魅せられている世の気風を、日々感じ取って彼は言います。世の中では、かっこうが悪いと思われる部分は隠し、見苦しいと思われる部分はもっと見栄え良くしようとする、と(23節)。
しかし、神は、と彼はつづけます。「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」(24節)。パウロが実際に書いた手紙には、ここに「しかし」という言葉がありますから、やはり、世ではそうであるけれども、「しかし、私たち教会は」、と反対のことを、要のこととして伝えています。見劣りのする部分、弱い部分がある、それがキリストの体であると言います。そのような意味で、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と、パウロは言います(27節)。

 さて、「キリストの体である」との言葉を聞き、私たちの思いは、この時点でもう一度、あの復活された主イエス・キリストの姿へと連れ戻されます。弟子たちの前に現われられた、主イエス・キリスト。復活された主は、十字架に掛かられた姿のまま、弟子たちの前に現われました。何か、神々しく、完全で美しい姿をしたキリストではなかったのです。できれば、弟子たちが見たくない、目を背けたい傷跡が、主イエスの両手にあり、脇腹にもあった。十字架のままであった。そのことの重要性を説くようにして、福音書は伝えています。キリストの体は、周りから見れば、見劣りのする傷があり、世間的に見れば、弱い部分があるのです。しかし、それがまさに、キリストがキリストであることの印でありました。それは、傷ついたままにして私たちに寄り添われるキリストであると言えます。
 パウロの手紙を見る時、パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分」であると言います。世の価値観のような意味で見栄え良くする必要はなく、傷や弱さのある体こそ、まさにキリストの体であると言います。そして弟子たちは、キリストの傷という弱い部分を見て、そのお方が本物だと気付きました。そのことは、教会においては、そこにまさに傷や弱さがあるからこそ、あぁ、ここはキリストの体だと言えるということのではないかと思います。というのも、そこに、人の力ではなく、神の力が働くことを見、キリストの体なる教会が、今、ここにあり、と気付くのだと、ここから受け止めることができるのではないでしょうか。
 教会は、キリストの体である。これは、私たちは、そうあることを目指しているというよりは、既にそうであるという言葉です。その意味において、安心感をも与えられる御言葉。また、弱さの内に神様が働いてくださるという意味において、忍耐と信頼を求められる御言葉ではないかと思います。傷を持ったまま、ご自身を示された主イエス・キリストが私たちに、さらにまた親しく臨んでくださいますように。また、世の現実のただ中に、今日も慰めをお与えくださいますように、お祈りいたします。
(2019年5月5日 礼拝説教要旨)