十字架上の憐れみ

《 イザヤ書53章1~12節、ルカによる福音書23章32~49節 》
 毎年私たちは、イースター(復活祭)を祝いますが、その前に「受難日」を深く心に留めることは、与えられている恵みに、より深く気付かされる上で大切であると思います。暦を遡って計算すれば、この日と特定できるはっきりとした出来事として、主イエスは、この季節に十字架に掛かられました。その日の出来事の様子について、福音書記者たちは書き記しています。それまでつき従っていた弟子たちの姿も今やなく、イエスを十字架につけろと叫ぶ者たちが取り巻き、イエスの周囲にいた悲しむわずかの女性たち。今日の聖書箇所のルカ福音書にも、主イエスが息を引き取られる十字架の出来事について記されていますが、その絶望とも言える状況の只中で、実はルカ福音書は、既に希望がきざしているということを伝えています。今日、この受難日の夕礼拝ではそのことを聞き取りたいと思います。それは、どのような出来事だったのでしょうか。
 周囲の人々が皆、イエスに敵対する中、二人の犯罪人が両隣の左右に並んで十字架につけられています。そして人々は、イエスに向かって、代わる代わる叫んでいます。ユダヤ人たちは「もし、自分が救い主と言うのなら、まず、自分を救ってみろ」、またローマの兵士たちも「もし、自分がユダヤ人の王と言うのなら、自分を救ってみるがよい」と言います。いずれも、あざけりの言葉であり、弱りつつある者に、さらに無力さを突き付けるような言葉の数々です。
 また、人々のそれらの嘲笑が続く中、今、イエスの隣に十字架についている犯罪人の一人までも、「救い主なら、この自分たちをも救ってみろ」とののしります。自分が罪を犯して刑にあっている、その最中で、開き直っている様子が書かれています。最後まで悪を貫き通すような人間存在について、十字架のイエスが語られる際には、共に語り伝えられてきました。
 そういった出来事が、旧約聖書のイザヤ書に書かれている言葉に、重なるように読めます。

「その人は、見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられている」
「私たちは思っていた。彼は、神の手にかかり、打たれたから、苦しんでいるのだ、と」

 神の手にかかったのだという言葉は、他人事の声のように聞こえます。地上の歩みにおいて、神などいないではないか、神はどこにいるのかという声、そして、最終的に、神など自分とは関係がないとする生き方が、やがて真実に背を向けることにつながっていきます。直接的な嘲りを言葉にするのではないにしても、人が欲望のままに突き進んだ果ての姿がここにあるのではないでしょうか。また、私たちは、本来的にそういう性質を持つ存在であるのかもしれません。
 それまで従ってきた弟子たちの裏切りが、そのことを物語っています。彼らが、単に逃げたということ以上に、イエスを知らないと、呪いの言葉と共に否定した姿が、この受難週に浮き彫りになります。そのような情景を示され、自らの内をもう一度探る時が、この夕礼拝を通して私たちに与えられています。
 さて、今ここに、主イエスの隣に、もう一人の犯罪人がいます。彼は、もう一方の人をたしなめたといいます。彼は、イエスが、何の罪もないにも関わらず、十字架に掛けられていることを知っています。自分の罪については、開き直ることなく、自分は過ちを犯した人間である。そのことを知っているがゆえに、きっと心底知っているがゆえに、逆に、イエスが十字架刑にあっていることが、いかに割に合わないか、理不尽なことかについて気づいているのです。先の、イザヤ書の言葉は、この犯罪人が思っていることでもあったと思います。

「彼は不法を働かず、その口には偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされた」

 自分と共に、この無実の人も、その墓場を同じくする者とされる。つまり、それほどまでに、罪の中を生きている人間と共に、この方はおられ、罪の現実とその裁きの座にまで共におられる。自分の隣にいる、この人はいったい何者なのだろうか。すべての理不尽さを担うこの人は、いったい誰だろうかと、彼は思ったのではないかと思います。
 そして、彼は、ふと一つの願いを抱きます。「イエスよ、御国に入る時、私のことを思い出してください」。このイエスという人は、罪を犯さない人であるから、きっと天の国に入るであろう。それならばその時には、せめて思い出して欲しいと彼は言います。ほんの少しでも意識に留めてくださることがあれば、それだけでよいのです、と。
 彼がイエスに対してどのような思いを抱いていたか、詳しいことはわからないのですけれども、聖書に書かれている言葉からすると、彼は、「イエスよ」と言っています。「主」という言葉がないのです。つまり、そのお方が今、神の子であるかどうかも分からない。しかし彼は、思い出してください、という願いを抱きます。
 ここで、彼が言葉にしたのは、せめて思い出してください、という言葉です。彼は、一緒にいさせてください、とは言いませんでした。彼は今、彼自身のことについて、この報いは「当然だ」と言っているところに、彼自身の今の思いのすべてが表れていると思います。罪を受けて当然である、そのような分際である、身のほどである。もはや赦しを乞うのも、自分の分を越えている。そうであるから、せめて記憶のほんのかすかなところに、留めていただければ幸いである。あるいはもしかすると、それが救いにつながるかもしれないが、それは自分ではなく、決定的に神様のなさることである。そのような思いであったのではないかと思います。
 その彼に対して、主イエスは、即座に言われました。
「はっきり言っておく。あなたは今日、わたしと共に楽園にいる。パラダイスにいる」
 この犯罪人は、まだ、イエスが神の子であるかも分からず、どのように信じてよいのかも分からない状態です。それにも関わらず、そう言われました。
 これは、当時の教会の人々からすれば驚くべきことであったと思います。福音書が書かれた当時、初代教会においては、「イエスは主」という言葉は、非常に大切なものでした。自分はキリストを信じる者ですということの表明として、またお互いの合言葉のようにして「イエスは主なり」と言いました。ですから、主なるイエス、と言わなかったこの犯罪人は、当時の教会の人々から見れば、イエスを信じたとは言い難い、救いにあずかるにふさわしくないと思われたはずです。しかし、「はっきり言っておく」との言葉の後に、「あなたは今日、私と共に楽園にいる」との約束を、主イエスは言われたのでした。
 この犯罪人は、自分のことについては、よく分かっていました。神を無視して歩んできたこと。神に背を向けて歩んできたこと。それゆえにこの報いは、当然であると言い、もう一人に対しては、神を畏れないのかと、たしなめました。自分が、どのような者であるかを知っていました。そして、それに加えて、イエスに、私を思い起こしてくださいと言った、ほんのかすかな信仰の芽生えがありました。そのわずかな信仰のきざしに主イエスが目を留められるのです。
 福音書の中には、ある一人の父親が言った言葉が記されています。「信無き我を助けたまえ」。自分の子どもを救うことを願い、イエスにすがった父親の姿が示されています。どうか、信仰の無い私を助けてください、と自らのことを言います。本来、人間とはそのようなものではないかということを、思わされる言葉です。つまり、十分な信仰であったり、完全に悔い改めたりすることのできない者。自分では心の底から悔い改めても、再び罪が頭をもたげるような、みじめな人間であること。そのような意味で、「信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9章24節)と言ったあの父親の言葉が、思い出されるのではないでしょうか。しかし同時に、聖書は、そのような人間存在でありながらも、その人の内に、信仰のかすかな芽生えがあるという点についても光を当てています。そして、十字架上においても主イエスは、そのわずかな信仰のきざしを見過ごされず、そのことに目を留めて憐れまれるお方。「はっきり言っておく。わたしと共に楽園にいる」と、両手を広げて言われるのです。

「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちのとがのためであった」
 それは、私たちが、意識しようとしまいと神様が成し遂げてくださったことであり、私たちの側によらず、というところの神様のなさる大いなる救いの御業であることを、聖書は伝えています。

「背いたもののために、執り成しをしたのは、この人であった」
 人の全てをご覧になり、包み込むような憐れみをもって人を救おうとされる主なるイエス・キリストは、今日もまた、私たちに、そのようにして相対しておられるのではないでしょうか。
 願わくば、この日私たちの信仰の新たな芽生えが、その御心に顧みられますように。また、世の、痛み苦しみのあるところに、主の十字架の執り成しが、この夜もありますように切に祈ります。
(2019年4月19日 受難日夕拝説教要旨)