望みをつなぐ

《 使徒言行録23章11~22節、コリントの信徒への手紙二11章23~33節 》
 礼拝では、これまで使徒言行録を中心に見てきました。聖書の中の話には、読んでいて難しかったり、箇所によっては系図などが長々と出てきて、読み進めるのに困難をおぼえたりすることもしばしばありますが、その点、使徒言行録は、話の運びそのものも興味深く、引き込まれるところの多い書であると思います。日曜日ごとに、使徒パウロと共に歩むようにしてきた旅もいよいよ終盤にさしかかり、私たちの礼拝では、ちょうどイースターを前にした受難節に、パウロはローマへと足を踏み入れることになります。
 さて、その地点に至るまでに、彼は三度の宣教の旅をしていますが、今日の箇所では、その旅も終わりに近づき、いよいよ事態が緊迫した状況へと展開していきます。そして、その中で23章は、使徒パウロの言わば救出劇が書かれている箇所です。
 パウロがエルサレムに到着すると、彼はユダヤ人らに目をつけられ、命を狙われるようになります。時代状況としては、当時、ユダヤ人たちはローマの支配からの解放を求め、中には過激な民族主義的な思想を持つ者も現れた時代。公然と短刀を持ち歩き、気に入らない者の命は所かまわず奪っていくというグループもいたことが知られています。そういった背景を知ると、聖書のこの箇所で、異邦人も救われると主張したパウロの命が狙われ、そのために陰謀が企てられているというのも、なお理解できるように思います。今、パウロは、ローマ兵の兵営に保護されていますが、「パウロを殺すまでは、飲み食いしない」と誓う一団が出てきて、彼らは、さらに詳しく調べるためという名目で連れ出し、その移動中にパウロの命を狙おうと企てているのです。
 そして、そういった中で、今日の箇所でパウロの救出に一役を担ったのは、突如として現れたパウロの甥でした。
 16節に、「この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み」とあります。時代劇さながらの一場面。ここでいう姉妹とは、クリスチャンの仲間として姉妹と言うこともありますが、ここではやはりパウロの実の姉か妹のことのようです。これまでの箇所で、パウロの生い立ちなどについては、タルソス生まれであるとか、有名なラビの下で教育を受けたこと、またローマの市民権を持っているといったことについては触れられていましたけれども、実際の家族のことについての言及や、ましてやその家族の一員が登場するということはありませんでした。パウロの甥については、この箇所だけに記されているのですが、それによれば、若者である彼はまだ十代の青年と思われます。この無名の甥が、パウロの命を助けることになるのです。
 その時、他の主だった他の使徒たちも、エルサレムの町のどこかにいて、町中で騒動になって噂になっているこの出来事を知っていたはずですが、彼らは、人々の前でパウロに接触することを恐れ、自分たち自身の身も危ない状態ではなかったかと思います。しかし、青年であるパウロの甥が、ユダヤ人らの動きを、きっと人々に紛れるようにして聞き込み、躊躇せずに素早く立ちあがって、パウロが保護されている兵営に行き、最終的にそのことを兵営全体を監督している千人隊長の耳に入れます。使徒言行録は、臨場感にあふれています。千人隊長は、若者の手をとって人が誰もいないところへ行き、彼と会話をします。「このことを、わたしに知らせたことは、誰も話してはいけない」と言い、これらの二人の会話が、夕暮れ時の建物の陰で、小声で交わされた情景が目に浮かびます。
 果たしてその千人隊長は、夜の九時を開始時刻として号令をかけ、パウロが危害を加えられないように総勢五百名近い人数からなる部隊の警護を付けて、夜のうちに護送することを命じ、翌日には、パウロを総督のいるカイサリアまで無事に移送することを完了させたと報告しています(33節)。かくしてユダヤ人たちの陰謀は実行されずにすみ、甥である一人の青年の行動が、ことを動かし、パウロの命を助けました。
 実は、パウロは、そういう危機から救い出されるということを何度となく経験していて、たとえばダマスコでは、そこの領土の王の手を逃れるために、城壁にある部屋の窓から、籠に入れられてロープでつるし降ろされ、間一髪で危機を脱したことが書かれています(第二コリント11章32節、使徒言行録9章25節)。こういった箇所を見ると、彼は余裕のある中で事を進めているというよりは、むしろ何度も、命拾いするような状況を経験しながらも、常に前に進むことを考えています。また、そういった中で、神様の支えを実感し、また自分の「召し」に対する思いを確かなものとしていったのではないかと思います。私たちにおいても、場合によっては、命がつながれるような経験をする時に、神への思いを与えられ、信頼する心も強められていくということがあるかもしれません。

 ふと、ある詩を思い出しました。星野富弘さんの花の詩画集の中に掲載されている「いのち」と題された詩です。

 「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった
  いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」

 不慮の事故に遭われた星野富弘さんの、実存のかかった、その中から紡ぎ出された言葉であると思います。「生きているのが嬉しかった」。はたして、私たちは、こういう視点と実感を得て生活しているでしょうか。日常のこと、身の回りのことに、気を取られているうちに、私たちの気持ちの矢印は常に内向きになっていて、出口が無いかのような中でぐるぐると色々なことに思い煩うことがあります。それは、この詩の言うように、「いのちが一番大事だと思っていた時」ということだと思います。しかし、ふと、ある視点を与えられて、それまで考えていたことがいかに小さなこと、ちっぽけなことであったかと気づかされることがある。そういった諸々の気持ちから解き放たれるように、その状況に一石を投じられるような視点。星野富弘さんの詩によれば、それは自分の命に対する見方によるのだと言います。
 使徒パウロも、ある意味で似たようなことを綴っています。たとえば彼の記したフィリピの信徒への手紙は、「喜びの書」と言われています。それは、彼が、命の危険にさらされ、また獄中に置かれながらも、それに囚われないかのように喜びについて記しているからです。このパウロの心境は実に不思議なものがありますが、それは彼が、何か特別な力や能力を得ていたからではないようです。確かに、彼の宣教の旅や、先々で教会を建てていく働きは目覚ましいものがあります。しかし、彼自身は、弱さを誇る使徒でした。先の、城壁からロープでつるし降ろされて助かったという箇所も、前置きは、「私の弱さにかかわる事を誇ろう」とあります。そして、そのような中にあっても、なお、わたしを愛する主が、為してくださる。神様の働きであるからには、主が道を開かれるということを信じ、そこに身を委ねていました。また、自分の命というものも、自分のものではなく、神から与えられたもの。そこに、自分の命に対する彼の見方が現れていると思います。
 パウロは、そういった思いを与えられて、命の危険に何度もさらされても、常に前に進むことができました。その証しとしての、三度にわたる長い旅であったということができると思います。神様によってつながれた命であること。また本当の意味で、キリストによってつながれた命であること。それゆえに今日の私がある。その視点を、私たちも常に心新たに与えられたいと思います。

 話は変わりますが、以前、隠退される牧師を囲んでの会に出席した時のこと。牧師としての思い出やご経験などついて伺った後に、なぜ、牧師になろうと思ったのかということに話が及びました。その牧師によると、若い頃に、通っていた教会が、諸事情によりある時期無牧(牧師が不在であること)になったことがあり、その時に、自分は、その開いてしまった空白を埋めなくてはいけないのではないかと思った。途切れてしまった間を、つなぐ働きが必要なのではないかと思った。それが、最初の動機だったと話されました。また、その自分の通っていた教会だけを考えたわけではなくて、人間の諸事情によってではあるけれども、神様の為さろうとしている大きな働きに、空白ができてしまう。福音という大きな流れに、間ができてしまう。これは、大変なことだと思った。こりゃいかんと。それで、それを「つなぐ働き」というところに、神様からお呼びがかかったように思ったと、振り返るように語っておられました。
 私たちは、そういった牧師や、また聖書のパウロのように、直接的な意味で宣教に携わるのではないのですけれども、しかし、より広い意味では、キリスト者として神の国のことを思い、御心がこの地になりますようにと祈るという点で、やはり同じだと思うのです。日常の中で、遭遇する状況の一つ一つ、出会う相手の一人一人のことを思う時に、キリスト者として自分がそこにあることを思い、神の国の流れをつなぐ働きとして自覚することができるのではないかと思うのです。
 今日の箇所に登場するパウロを助けた甥である若い青年や、あるいは、ダマスコにある城壁からつるし降ろされた際に、そこでパウロをかくまい、またひそかに助けた無名の人たちがいたということを聖書は告げています。神様によって、人々がそのような形で用いられたということを思う時、私たちも同じような意味で、誰かの望みをつなぐ働きをすることができるのではないだろうかと思います。その状況においての御心を探り、またその相手にとっての最善を考え、希望をつなぐような小さな一手を差し伸べることができるのではないでしょうか。聖書に記されたそれらの人々の行動は、とっさの判断であったかもしれませんが、そこに伴った勇気に思いを馳せる時、私たちも感化を受けるような思いがします。命与えられた者として、大きな御心を信じ、神の国の前進を心に思い、小さなことをも為すこと。どうかその思いを今日も新たに与えられ、日々のことに向き合うことができますように。
(2019年3月24日 礼拝説教要旨)