はじめの日から

《 使徒言行録 16章11~15節、フィリピの信徒への手紙 1章3~11節 》
 「はじめの日」。これは、私たちにも必ずあることだと思います。特に今日少し意識して、思いめぐらしてみたい「はじめの日」は、私たちが教会に来るようになった時のことや、キリスト教、また聖書との出会いについてです。そのことをお一人お一人に尋ねてみるだけでも、それぞれの物語を聞くことができるテーマです。
 今日の聖書の箇所には、聖書の中でここにしか登場しない人物について記されています。ある日、キリストを伝えるパウロと出会い、フィリピという地で最初のクリスチャンとなったリディアという人についてです。それは、エルサレムから西へとキリスト教が運ばれ、今日のヨーロッパ側に入って最初の出来事でした。
 リディアには、家族もいて、彼らもまたすぐにイエス・キリストを信じます。当時は、おそらく家長である者が改宗すれば、家族の者も同じ宗教に入信する場合が多かったはずですから、リディアの家族もそのようであったと思います。彼女はきっと女手一つで生計を立て、自分の家族を養っていたのかもしれません。仕事に紫布の商売をしていたとありますけれども、彼女は自分の故郷の町からそれを取り寄せて、フィリピの町できっと苦労しながら、たくましく生きていたのだと思います。ですから、これは想像ですけれども、そういう生きていく上での辛苦を味わいながら生活しているリディアには、キリストの十字架の意味であるとか、そこからにじみ出るような神様の憐みというものが、その心でよくわかったのではないでしょうか。そのようにして、彼女は、その地で最初にイエス・キリストを信じる者となりました。
 さて、その後しばらくして、使徒パウロは、フィリピにいるクリスチャンたちに手紙を書きました。その頃には、多くの者が信じるようになっていたようです。その手紙の冒頭を見ると、そこに書かれているのは、彼らの内に神様が事を始められたということについての内容で、ちょうどその日のことを思い出してみなさい、と言っているのだと思います(フィリピ1章5、6節)。そして、そのことを意識することが、私たちの、自覚を持った歩みにとっても大切なであるという点を記しているのだと思います。現実の生活の中で、信仰的な思いに私たちを引き戻してくれるのが、きっと、はじめの日からのことを思い出すということなのだと思います。
 また、最初のことを思い出すということは、それによって、私の人生の中に、言わば神様の手の跡を見るということだと言えるかもしれません。たとえば、よく子どもたちが紙粘土の上に手を置いて、その手形を取るということをするのを思い出します。色を塗って年齢や日付も入れたりします。皆さんもそのようなことをなさったことがあるでしょうか。そして、後から懐かしくその形を見て、指で触れてなぞったりすることができる。そして、その後の月日に思いを馳せる気持ちにもなります。似たような意味で、神様が私たちの内に、事を始められたということは、そこに神様の手形が確かに残っているということなのだと思うのです。そして、それを思い出してみた時に、その時から今日に至るまでの自分の歩みというものを、もう一度意義深く振り返ることができるのだと思います。彼らの内に、神様が働かれた。神様が、人の内に事を起こされた。そういう出来事から始まった時のことを思い出してみなさいと、パウロは、成長したフィリピの信徒たちの群れに言うのです。
 聖書には、「わたしはアルファであり、オメガである」(ヨハネの黙示録1章8節)とありますけれども、神様は、私の内にも事を始められ、そしてオメガである最終地点まで、最後まで責任を持って支え導かれるお方である。その意味が、この言葉からも読み取れると思います。キリスト教の時間の概念は、円ではなく、線であると言われます。これは、輪廻のように物事は繰り返す、あるいはめぐるという考え方ではなく、点と点を結ぶ線である。つまり私たちは、無目的な人生の道を歩んでいるのではなく、神様が定められた「目的地のある道」を歩んでいる、ということを意味しています。「キリストの日」(フィリピ1章10節)とありますけれども、そこに確かな目的があります。とがめられることのない者となり、「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受ける」(11節)。そのような大いなる希望に集中していきます。
 そして、そうであるならば、そこに向かう歩みとその過程は、決して空しいものでなく、また無意味なものではないということです。その意味で、その道の途中においては、私たちは、「本当に重要なことを見分けられるように」(10節)、そのようにして歩むことが大切であると告げられています。
 今日の聖書箇所は、最初にクリスチャンになった人、言わば初穂となった信仰者の話ですけれども、あるクリスチャンの女性が、ふとした会話の中でこのような趣旨のことを言っていたのを思い出しました。「最初にクリスチャンになるって何か損ですね」と。その方は、決して不平であるとか、自己中心的な思いからそう言われたわけではなく、むしろ家族や周囲に対して献身的な方でしたので、他者のために生きることの大変さを知っての上で、その言葉を言っておられたのだと思います。また、その方の、実際には大変な状況でも気負うことなくその生き方を続けておられる姿が、周囲には、信仰者としての強さとして映っているのではないかとも思わされました。
 私たちは、よく「一粒の麦の信仰」と言います。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一粒のままである」(ヨハネ福音書12章24節)との御言葉に基づいた信仰の在り方です。この御言葉は、イエス・キリストのことをあらわしていますけれども、その肝心のイエス様のところを、自分に置き換えてしまってはいけないという留意も必要ではないかと思うのです。自分が頑張って実を結ぶのではなくて、やはり実を結ばせて下さるのは主イエスであるという点で、そこに主への信頼が鍵となっているのではないかと思います。
 今日の箇所で、リディアは信仰を与えられました。リディアは、最初ユダヤ教徒でしたけれども、今、主イエスを信じるようになり、それまで背負っていた荷を下ろすことができたのではないかと思います。ローマ社会の中で肩身を狭くしながら、自分の手を頼りに、生活を成り立たせていました。家族を養い、また祈りにおいても熱心で、周囲の仲間の女性たちに対しても世話をするような、頼りとされる中心的な女性でした。考えるだけでも、よほど芯が強くないとやっていけないという状況だったと思います。そのような彼女が、今、キリストと出会ったというのは、本当の意味でその十字架の慰めに与(あずか)ることができたということだと思います。そして、「これからは、このお方に委ねていくことができる」、そのことを心底、得たのだと思います。
 フィリピの教会はその後、成長していきました。そこに、初穂としての彼女の信仰がありました。このフィリピの教会の一番はじめに、一人の信仰者の姿があったことを、聖書は、ここに留めるように記しているのではないかと思います。
 「あなたがたは、最初の日から今日まで、福音にあずかっている。あなたがたの中で善い業を始められた方が、導き、キリストの日に向って、その業を成し遂げて下さる。そう確信しています」とパウロは告げました。始められたのは神様であるから、そのお方は途中で放り出したりはなさらず、責任をもって、支え導いて下さる――私たちにも、今日そのように語りかけられている御言葉ではないでしょうか。
(2019年2月17日 礼拝説教要旨)