見きわめる知恵

《 使徒言行録 5章27~42節 》
 私たちは、日頃多くのことに遭遇します。些細なこともあれば、重たく感じられることもあり、また、それらについて、そのままやりすごしてしまうこともあれば、立ち止まって考えることもあると思います。そのような中で、物事の受け止め方というものを意識することがあるでしょうか。今日の聖書の箇所は、そのようなことについて信仰としての示唆を与えられる箇所ではないかと思います。
 ここにはユダヤ教の教師(ラビ)、ガマリエルという人物が登場し、このユダヤ教の教師の発言に皆が注目しているという場面が記されています。この教師は、聖書以外の書物にも記されている歴史的人物で、彼は、ファリサイ派に属していました。ファリサイ派については、福音書ではイエス様と敵対することが多かったのですが、それでも、その中にはたとえばニコデモのように真理を求める教師たちもいたようです(ヨハネによる福音書3章)。さて、このラビ・ガマリエルが実際にどれだけ当時のクリスチャンたちに他の面で好意的であったのかはわかりませんが、使徒言行録によれば、彼は優れた判断力を示していて、少なくとも使徒たちからすれば、クリスチャン寄りの聡明な判断を下したことが見て取れます。
 彼はここで、ユダヤ教の最高法院という議会にいます。そして、彼の目の前には、今、引きずられるようにして連れてこられたペトロをはじめとする使徒たちがいて、彼らは、何度も脅されているにもかかわらず、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と、毅然とした態度をとっています(29節)。イエス・キリストの復活の目撃者として、彼らは譲らないわけです。また、これは少し細かいことですが、ファリサイ派というのはサドカイ派という一派と違って、復活は起こり得ると信じていた人々でしたから、本来であれば、この使徒たちの言い分というのは分かるはずであるのです。
 そこでガマリエルは、そういったことも影響してか即座に裁こうとしません。彼の言葉を見ると、彼は、自分たちが手を下す必要もなく、過去の民衆を扇動したものたちが自滅していったように、様子を見ていればよい、との立場であったと見ることもできます。彼は「ほうっておくがよい」(38節)と述べています。しかし、もしそれだけであれば、彼は神様を持ち出す必要はなかったはずでしょう。彼は実際、「神から出たものであるならば、滅ぼすことはできないし、神に逆らうことになるかもしれない」と、そこに神が働いているかもしれないと言っているのです。
 この記述を基に考えると、彼自身が何よりも知りたかったのではないかと思います。キリストの弟子たちによる、この新しく起こってきた動きというものはなんなのだろうか。どう理解したらよいのか。はたして本物であるのかどうか。その意味で彼は求道心というものを持っていた様子です。考えてみれば、彼は人々から尊敬され、議会の中においても発言力があり、いかようにも判断を下すことができたと思います。いわば重鎮のような立場にありました。しかしここに書かれたことから読み取ることができるのは、そういった中にあって彼は甘んずることなく本物を追求するという心を失っていなかったということではないかと思います。そして、彼は言わば歴史に任せました。歴史が彼らを証明するだろうというわけです。その後教会は、二千年もの間続いている訳ですが、そのことをもし彼が聞いたなら、驚きと共に、やはり自分が当時感づいていた通りだと、感慨深く頷いたかもしれないと想像します。
 さて、このところから、もう少し広い意味について教えられるのではないかと思います。ユダヤ教の教師であるガマリエルの立場に立って考えた時に、今、目の前に起こっていることが、単なる人による出来事で、信仰的なことと何の関係もないことなのだろうか、それとも、そこに何らかの神様のご意思と働きかけがあってこのことが起こっているのだろうか、彼はそう問いました。神から出たものであれば、それに逆らうことはできないと言います(39節)。また、ガマリエルは、すぐにこれは神の業だと断定することもしませんでした。そうすることがすぐにはできないということも、示唆を与えられるところではないかと思います。私たちも、日常生活の中で、私たち自身が遭遇する事柄について、そういった問いを持つことがあるでしょうか。つまり、これはまったくの偶然だろうか、それとも神から出ているのだろうか、そういう問いです。あまり安易に、また都合よく神様と結びつけてしまうことには気をつけなくてはならないと思いますが、そういう問いを持つということは、やはり神様を信ずるものとして自然なことであり、また、自問するということが信仰生活であるのだと思います。
 ボンヘッファーというドイツの神学者が、戦時中にアメリカに滞在していた時に、ある聖書の短い一節を読んだと言います。「冬になる前にぜひ来てください」(テモテへの手紙二4章21節)との言葉を読み、その言葉が頭を離れず、そのことを一日中考えていたと言います。1939年の夏のことでした。彼の周囲には、彼を何とかして戦争が終わるまでアメリカに滞在できるようにと、尽力した人々がいたのですが、ボンヘッファーはそれを断るようにして、最終的にナチスの支配するドイツに戻り、受難の道を選ぶことになります。彼は、聖書の言葉と自分の置かれた状況とを照らし合わせるようにして自らを問い、大きな決断をしていきました。
 御言葉を通して、そしてまた取り巻く事象を通して、神様は導きを示されているということだと思います。また、神様は御心の全てを明らかにされるというよりは、私たちに言わば信仰的な考え方を持たせ、そういった営み自体を深めることを求めておられるのではないかと思います。ですから、これは一見非常にもどかしいようにも思えるのですけれども、神様は自問するような信仰による営みを良しとされていると思うのです。また、逆にもし何でも私たちが「わかって」しまったならば、それは何か非常に危険なことになるのではないかと思います。私たちは、やはり一人一人与えられた信仰を見つめ、その中で、限りがあることを承知しつつ、その時々に最善と思われることを祈りの中で決断していくことを教えられているのではないかと思います。
 さて、ボンヘッファーの米国滞在に尽力した人の一人に、ラインホルト・ニーバーという神学者がいました。彼が、先のことの四年後の1943年の夏に、ある山村の教会で説教した際に祈った、ある祈りが知られています。当時の状況下でキリスト教倫理の教鞭をとるニーバーはこう祈りました。
「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らにあたえたまえ。/変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さをあたえたまえ。/そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵をあたえたまえ」(『聖書資料集―キリスト教との出会い』富田正樹著、日本キリスト教団出版局、p47) 後にこの祈りはニーバーの祈り、または「心の静けさを求める祈り」と呼ばれるようになりました。
 私たちは、自分にとって祝福と思えることには、神が与え賜うた祝福と歓ぶことができると思います。しかし、どうでしょうか。私たち自身に不都合なことにはどうしても戸惑いを覚え、現実のことに精一杯になり、信仰的に考えることは後回しになりがちかもしれません。しかし、私たちは、この祈りにあるように何よりも冷静さを与えられたいと思うのです。その中で御心を探り求めることができ、また、そのこと自体を神様はご覧になっているのではないでしょうか。

 私たちは、教会で「主において」あるいは「主にあって」と言いますが、改めて考えれば、これは、私たちが一つ一つのことを神様との関係で捉えているということを意味しています。ユダヤ教の教師ガマリエルが、出来事を「主において」捉えようとしたのもそうです。あるいは、使徒パウロが、「わたしは主において喜びます。」と言い、また「主にあって誰々によろしく」と書いているのも、本来、神様なしでやり過ごしてしまいそうなことを、「主にあって」と意識することの大切さを伝えているのだと思います。そしてお互いのつながりについてもそうであるように思います。私たちは、教会という場に限らずお互いに喜び合ったり、また悲しみを共にしたりするということがあります。苦労した、喜びがあった、ということで、私たちはお互いに繋がることができるのだと思います。また、もしそういう友がいるならば実に幸いです。そのような時というのは荷が少し軽くなったようにさえ思えることがあります。
 そしてさらにもう一歩考えるならば、私たちが経験する喜びや苦悩を通して、私たちが「神様と向き合っている」、その姿においてつながることができるということではないでしょうか。そのように、神様に向いているお互いの姿に、励まされるところに教会の姿があるはずです。
 どうか私たちのそれぞれの歩みにおいて、与えられた事柄に、主にあって信仰を持って向き合うことができますように。不安や戸惑いを覚える時には、上からの知恵により冷静さを与えられて、それを保つことができますように。そして共に主を見上げる姿に、互いに励まされる私たちでありますように祈ります。
(2018年11月18日 礼拝説教要旨)