落ち穂拾い

《 レビ記 23章22節 》
 秋らしい季節になりました。聖書を開く際にも、季節感を手掛かりにして親しむことは一つの読み方かもしれません。収穫の季節に旧約聖書の人々は、仮庵祭と呼ばれる祭りを毎年催しましたが、その際、「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記23:22)との教えを守りました。収穫の落ち穂を残しておくという習慣はルツ記にも記されていて、登場するルツとナオミの話と共に思い出される秋の風景の一つです。
 19世紀の画家ミレーの描いた「落ち穂拾い」は、日本でも良く知られた絵画ではないでしょうか。三人の女性が腰を曲げて穀物を拾う、一見のどかな田園風景。しかし日本の農業とはちがい、長いフォークで収穫作業をする際には落ち穂が地面に残されます。そして落ち穂を集める貧しい女性たちと共に、この絵の遠くの背景に描かれているのは、収穫物がうず高く積まれた馬車と、それを監督している人の姿です。ミレーは「見たままに描いた」と言ったそうですが、彼はその景色を捉えて描きました。聖書もまた、そのような視点を私たちの視野の中心に据えることを教えているのではないかと思わされます。
 8月の終わりのこと、福島の原発事故から7年半が経った現状を知る牧師研修会に参加しました。いわき市からバスで国道6号線を北上すると、道を折れて入ろうとする角にはどこも立ち入り禁止の立て札があり、また汚染土があちこちに敷き詰められるように積まれた景色を目の当たりにし、報道されている全国の避難者数約5万7~8千人(復興庁調べ8月、9月)という数字とその状況を重ね合わせました。
 また、事故が起きてから今日までに至る様々な問題について、健康上の心配から風評被害、人と人とが分断される現実の他、復興が掲げられることによって実際に抱えている不安に蓋をされてしまう今現在の問題など、その現状の一端を現地で聞く時を与えられました。現地の教会の一つ、小高伝道所という教会とその幼稚園は原発から16キロに位置し、当時強制避難命令が出された地域にあり、未だ再開されていません。園庭の滑り台には上の方まで草が絡みついていました。また、教会の中に入り、当時の礼拝の説教題を記した看板がそのまま無造作に隅の方に置いてあるのを見て時が止まったままのように感じられ、さらによく見るとその看板には、神学生時代からの知人牧師の名前がありました。その彼が習字の筆で書いたと思われるその字を見た時に、急にその場所が身近に迫ってきたのでした。単なる建物ではなくて自分の知る人が生活する空間のように思えてきた訳です。そういう種類の共鳴を皆さんも経験されたことがあるのではないでしょうか。何か小さな一つの共通のものを見出すことによって開かれ拡がっていくという共感。そのようにして、何かが通じ合い、共鳴する心を与えられること――本当の意味でそれができるというのは、イエス様だけであるけれども、しかし私たちも、少しでも、半歩でもそうすることができるようにと示されているのだと思います。情報ばかりが多い世の中に埋もれ、無意識に感覚がマヒしそうになる時にも、そのような意味での「落ち穂拾い」を意識する歩みをすることができますように。
 聖書は、「貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ23:22)と記しています。主なる神であるお方は、小さくされた人々に目を留め、そこに柔らかい光を当てつつ私たちに具体的な実践を求めておられます。
(2018年9月の説教より~CS、野の花の集い、主日礼拝より~)