前に進ませて下さる

《 ヨハネによる福音書 6章16~21節 》
 今日の聖書の箇所は、主イエスと弟子たちがガリラヤ湖を渡ろうとした時に起こった出来事について記されている箇所です。ちょうどその前には、二匹の魚と五つのパンの奇跡の出来事あって、人々は、とても満たされた経験をして、まだその余韻の残るその日の夕方のことでした。そこで、なにが起こったのか、共に見ていきたいと思います。

 弟子たちは、先の奇跡の出来事の後、そろそろ帰ろうと舟のある湖畔まで下ってきました。弟子たちは、当然主イエスをお連れして帰らなければならないと思ったことでしょう。しかし、既にあたりは暗くなっていて、とにかく舟を出して出発することにしたわけです。この、イエスをおいて出発したということに関して、それぞれの福音書の見方が多少違っていて、マタイ、マルコによれば、それは、イエスが強いて弟子たちを舟に乗せたからだ、と書かれているのですが、ヨハネ福音書を読むと、そうではなくてイエスと言葉を交わす前に、弟子たちは既に出発してしまったことになっています。ですから、実は主イエス抜きで決めてしまったことがそもそも良くなかったのだという、他の福音書と少し違った点に注目をしていているのだと思います。つまり、ここでは祈りと信仰を抜きにして、歩み出してしまったことをヨハネによる福音書が問うているのかもしれません。
 しかし、そういったことも、実は主イエスに祈られているのです。イエスはなぜ残られたかというと、一人で祈るために山に留まったということが、他の福音書の箇所からもわかります。ですから、わたしたちが仮にひとたびイエスを忘れてしまったような歩みをしたとしても、また、それがわたしたちの心もとない歩みであっても、わたしたちの生活の全ては主イエスの祈りのうちにあり、また支えられていることであると思います。一方で弟子たちが嵐に遭遇している時に、他方では主イエスが一人祈られる姿がここにあります。

 また、皆さん思い出されるでしょうか。主イエスがペトロに言われた言葉の中にこういう言葉があります。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章32節)。ご存知のようにペトロは三度イエスを知らないと言うのですが、そのことについて、前もって主が祈っていると言われた言葉です。私たちの欠けの多い歩みも、常に主の祈りのうちにあるのだ、ということを、福音書は語りかけているのではないでしょうか。

 さて、弟子たちは、暗闇の中をもくもくと漕ぎだすのですけれども、岸から遠く離れたところで強い風が吹き、舟も大きく揺さぶられパニックになっているわけです。さすがの元漁師たちも、恐れの中で慌てたことでしょう。そう言う時にはお互いに助け合うのではなくて、責め合うことの方が多いのではないでしょうか。「だから言ったじゃないか、だから出発するのを止めるべきだったのだ。イエス様を待つべきだったのだ。第一あの時、誰かがそんなこと言い出さなければ」と、そういう声が飛び交う中で、嵐ですから、その衝撃でしがみついては倒され、起き上がっては皆なぎ倒されたことでしょう。そういう場面が目に浮かびます。
 正にその只中において、彼らは主イエスの声を聞くわけです。「わたしだ。恐れることはない」。これは、元の言葉で、「わたしは、ある」と書かれている言葉です。これは、人が神を完全に忘れていた状態、あるいは神様は無力なお方だとうちひしがれている中にあって、常に、御自身を現される言葉です。または、旧約聖書では、モーセが燃える柴のところで「わたしはある」(口語訳では「わたしはあって、あるもの」)と、神様が御自身を現されています。そのことによって、弟子たちも、またモーセも、聖書の登場人物たちは、心新たにされ、それぞれの歩みを始めていくのです。

 わたしの青年会時代から親しくしている友人がいて、彼は牧師になる前は長距離トラックの運転手をしていました。彼は、ある雪吹雪の日に高速道路で走っていて、思わず多重追突事故に巻き込まれそうになったことがあったけれども、わずかのタイミングで前方の車に衝突せずに、ブレーキで車が止まってくれた、ということがありました。大型トラックですから、もし追突していたら大変なことになっていたことでしょう。そして彼は、その時思わず、「わたしは、しっかりと見ているんだ。あなたを守っているんだ」と、神様はおっしゃっているのだと思った、「わたしは、ある」常にいて守っているのだということを、肌身で感じた、と話していました。

 わたしたちは日常においては、あまり意識していなくても、ある時に主の臨在というものをおぼえる、または、そういった迫りのようなものを経験するということがあり、それがこの「主イエスが舟に近づいてこられた」ということではなかったかと思うのです。
 もちろん、わたしたちの個人的な信仰の経験というのは、一人一人違って一概に皆がそのような経験をすることではないと思います。皆が使徒言行録に記されている、使徒パウロのダマスコ途上におけるような、劇的な仕方でキリストとの出会いを経験するのではないとは思います。むしろ聖書を静かに読む中でキリストと出会うものかもしれません。しかし、いずれにしても言える事は、わたしたちが、日常においてこれ以上前に進めない、もうこれ以上はだめだという時に、「わたしだ。恐れることはない」との御声が、常に語られているということだと思います。そしてまた、大切なこととして気付かされるのは、そのような状況にあっても、実は主御自身がずっとわたしのことを祈りに覚えておられる、ということだと思います。

 私が洗礼を受けた教会では家庭集会が盛んでして、平日に誰かの家で聖書の学びをする会がありました。ご家庭を開放されて集会を持っておられた方が、自分が聖書を読む机の上にいつも一本のロウソクを灯しておられまして、何気なく、お尋ねしたことがありました。すると、その方は、「これは遠方に住んでいる娘のための祈りのしるしです」とおっしゃいました。「朝晩と聖書を読む際に、ロウソクを灯し、ご家族の日々が守られるように、また信仰を与えられるようにと祈っている」とおっしゃっていました。
 誰かに常に祈られているというのは、ちょうどロウソクが一本ともっているということであり、そこに、今日も誰かの祈るこころがある、ということであると思います。そして、とりわけ、主イエスがわたしたちのことを祈っておられる、ということを聖書は伝えています。

 さて、物語の最後の箇所をみると、弟子たちは、「主イエスを舟に迎え入れようとした。すると目指す地に着いた。」とあります。ここでも、ヨハネによる福音書のこだわりがあります。というのは、他の福音書では、主イエスが舟に乗り込まれた、とあるのですが、ここでは、迎え入れようとした、と書かれています。つまりイエスが乗り込まれたということよりも、迎え入れようとしたという、弟子たちの側のことをヨハネによる福音書は伝えようとしていることだと思います。弟子たちの「しようとした」という意志を、しっかりと書き留めているのです。神様は、わたしたちの、そういう「しようとする」心をご覧になる方ではないでしょうか。実際にそれができたかどうかよりも、まずはそうしたいと願う時、もうそれで十分である、とここで言われているかのようです。

 思えば、あのルカによる福音書15章の放蕩息子は、放蕩の限りをした後に、父の元に帰りますが、そこで父親に対して、こういうふうに言おうと考えていました。自分は「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。この言葉を伝えようと考えていたのですけれども、実際には、父親に遮られるのです。「息子と呼ばれる資格はありません。雇い人に…」と言い終わらないうちに、父は人々に、「急いでいちばん良い服を持って来て、着せなさい」と、もう十分であると言うかのように、彼を受容するのです。
 神様は、私たちが立ち返ろうとする、「しようとする」その気持ちを既に受け止めてくださっておられるのだと思います。それはまた、私たちが徹底して立ち返ろうとしても、決して完全にそうできる強い存在ではないということを、神様はご存知なのだと思います。むしろ、「こんなわたしであっても、神様に立ち返ろう」と願った時に、あるいは、「こんなに七転び八起きで、まだ十分に立ち上がることさえできていないけれども、それでも主イエスと共に歩みたい」、そう願った時に、既に神様は全てをご存知で、そういう私たちの意志を十分に受け止めて下さっておられるのではないでしょうか。

 「舟は目指す地に着いた」、と記してこの箇所は終わります。その地は、初めて訪れる地ではなく、以前居たところです。再び戻って来たところは、見慣れた風景の日常の場です。しかし湖の対岸で、また湖上で神様のあまりの大きさに圧倒され、弟子たちには久しぶりにその港に戻ってきたような思いだったのではないかとも思います。お互いに顔を見合わせながら、まちがいなくそれまでとは違った、揺るがざる確信に満たされて、日常へと遣わされていきました。
(2016年7月10日 礼拝説教要旨)