家を建てる者(良き会話)

《 詩篇 118編22~29節 》
 昨年、房総半島にある竹岡教会という古い教会を訪ね、教会の歴史を知る機会がありました。今から百年以上前のこと、その教会を最初に建てる際に、海岸沿いにそびえ立つことでよく知られる千葉県の名所、のこぎり山から大きな石を切り出して、それを運んで土台としたといいます。そして、その後関東大震災が襲い、当時近隣の建物は崩れてしまったそうですが、竹岡教会は壊れることなく、村の人々が教会に避難したそうです。以来、何かの際には教会が、避難所になっているとの説明を聞きました。まさに土台が堅固なのです。
 土台という建物の基礎は、まず朽ちない物でなくてはいけません。また完成したら見えないかもしれませんが、建物全体を支えます。また、建ててから土台を変えることもできません。それが土台です。私たちの日々のことについて考える時、色々な天候の日があると思います。今年の正月のように良い天気が続く時もあれば、雨の日も風の日もあります。そのような時、決して揺らぐことのない土台が必要です。(マタイ7章24~27節)
 聖書は、イエス・キリストという土台が、常に必要であることを私たちに伝えています。そのことを「隅の親石」なるキリスト(118編22節)と言います。隅の親石とは、土台の中でも全体が決して動かないようにして支える役目を果たす大切な石のことです。私たちの日々や、生きる社会についても、信頼に足る、足元を支える土台が必要であることを思います。

「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」(詩編127編1節)

 ところで、「家」に必要なものは何でしょうか。宇宙飛行士は初めて宇宙に出ると、最初は地球の美しさに感動するのですが、宇宙空間に長期滞在するとだんだん会話が少なくなり、言葉に抑揚がなくなり、そのままでは語尾も平坦になってくるのだそうです。しかし、私たちの生きるこの地上においては、人の住む「家」があり、そこには会話があります。人と人との良い会話とは、何にも代えられないものです。私たちを取り巻く環境は通信技術の進歩が目覚ましく、私たちの生活スタイルを大きく変えるほどです。しかし、私たちの生活の中に本当に「良き会話」というものが果たしてどれだけあるでしょうか。誰かとの会話の中で、自分の考えたり、また感じたりすることを伝えるということを意識するのとしないのでは大きな違いがあるようです。良き会話は、私たち自身を豊かにします。
 そして、今日の箇所には、「主の御業はわたしたちの目には驚くべきこと」(23節)とあり、その喜びを言葉や体で伝えることが書かれています。私たちの信仰において怖いのは、驚きを忘れてしまうことではないでしょうか。先程の宇宙飛行士のように、最初の感動を忘れ、会話に抑揚もなく決められた軌道をただ回り続けているようにではなく、小さな何かを見つけて目を輝かせるような、驚きと喜びを言葉にする私たちでありたいと思うのです。その意味でいつも感覚を生かし続けなければならないのかもしれません。
 そのようにして、私たちの間に「良き会話」が常にありますように。また、紡ぎ出される私たちの言葉が、生きた証しとして多くの者の心と響き合う、そのような新しい年の歩みでありますように。
(2018年1月1日 礼拝説教要旨)