支える手

《 ルカによる福音書 5章17~20節 》
 イエス様はカファルナウムというガリラヤ湖の北の方にある町を拠点として活動しておられました。ルカによる福音書ではこの箇所あたりまで来ると、イエス様の活動が人々に広く知れ渡るようになっています。そして、特にユダヤ教の人々はその活動を警戒するようになっていました。ユダヤ教の中心であるエルサレムでもイエス様の噂が話題になっていて、今日の箇所では、わざわざ数日はかかるところをその噂について調べるために人が遣わされています。それほどに、イエス様の噂は、広く人々に広まっていて、語られる教えを聞き、また癒していただこうと群衆が大勢集まってきていました。
 そこへ、一人の中風を患っている人を仲間たちが連れてきたというのが、今日の話です。その日、主イエスはいつものように人々に教えを語られていました。するとパラパラと上からほこりが降ってきたかと思うと、突然天井に穴が開き、青空が見えました。当時のこの地方の家の天井は主に土でできていましたから、人々の頭の上に、そういった塊が降ってきて、みんなが「何が起こっているんだ」と騒さわめき、イエス様ご自身もこれにはびっくりされたかもしれません。そして、さらに天井の穴は大きくなり、やがて一人の病人が吊り降ろされました。四人の仲間が力を合わせて床の四隅を持ってやって来て、その隅を縄で縛って彼を吊り降ろしたのでした。彼らは、なんとしてもこの病人を癒してもらおうと、そのような大胆な行動に出たのです。
 さて20節で、イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。ここに、注目すべきことが示されています。それは、主イエスが「その人たちの信仰を見て」と書かれている点です。イエス様はここで、床に寝かされている病人の、ではなくて、彼を連れてきて屋根に穴を開けて吊り降ろした友人たちの、信仰を見つめられたのです。主イエスが信仰を見つめられた相手と、実際に癒された人とが別なのです。ということは、私の信仰というものは、私一人のものではないということができます。この私が信じるのは、私の隣人のためでもあるということができないでしょうか。主イエスは、その人たちの信仰を見て、中風の人を顧みられました。そこにつながりがあるのです。
 私たちは、こうして教会に集っていますけれども、きっとここに一人でいるのではないと思うのです。ここにはいない家族であったり、親戚や友人たちがいて、その人の分まで、代表してと言ったらおおげさかもしれませんが、心に留めて今この礼拝に集っていると思うのです。ですから私たちは、言葉としては「わたしたち」なのですけれども、ここにいない人も含めての「わたしたち」であるということができると思います。
 これは一つのイメージですけれども、思い出すことがあります。今年の4月に支区総会が行なわれ、その中で「按手式」が行なわれました。これは牧師が牧師になる時に行なう式で、式の中の祈りの時に先輩牧師たちが前方でその新しい牧師を囲み、手を置きます。また、人数の都合上、直接手が届かない場合は前の牧師の肩に自分の手を置くという習慣があるのです。私も、按手式への出席は久々でしたが他の牧師たちと共にぞろぞろと前の方に出ていき、前の牧師の肩に手を置きその祈りに加わり、そして、同時に私の肩にも背後から何人かの手の重みがありました。
 これは、牧師の按手式という場合ですけれども、少し考えると、どうでしょうか。私たちの場合も、もしかすると私たちの肩の上に誰かの手が触れているのかもしれません。実際には目に見えないけれども、私たちにつながっている者の、家族の誰かであったり、友人たち、親しい者たちの手が、私たちの肩にあるということを想像することができるのではないかと思うのです。そして、私たちが祝福を受ける時には、今度は、逆に私たちの信仰を通って、その人にも届けられると信じることができるのではないでしょうか。
 主イエスは、「その人たちの信仰を見て」、中風の人を顧みられました。そこにつながりがあります。その意味では、私たちの信仰とは、決して私たちだけのもの、ためのもの、ではないと思うのです。私たちは、その誰かのためにも信仰をもって教会生活を続ける者でありたいと思うのです。
 また、今日の話についてこういうことも言えるのではないでしょうか。もしイエス様が今、ここにいて、こんな出来事があったのだと私たちの前で話されたとします。そして中風を患っている人が、その人の仲間たちが必死になってイエス様のところへ連れてきたのだということの様子を話されたとします。その時に、その出来事に、どういう含みを持たせてイエス様は今日を生きる私たちに話されるだろうかと思うのです。
 この中風の人は、いわばイエス様という病院に紹介されなければならない急患であると思います。症状がこれ以上悪くならないようにしなければなりません。私たちの生きる世界をイエス様がご覧になった時に、この世の中そのものを、この救急患者のように見ておられるのではないでしょうか。ニュースを見るたびに私たちは日々起こっている様相を見て、なんとかならないものかと事態が本当に悪くならないでほしいと願うことがあります。この大きな病を抱えている世界は、もはや自分自身では解決の糸口を見出だせないで呻うめいている、この中風の人ということができないでしょうか。
 そして、イエス様が同時にご覧になっているのは、付き添いの人々の信仰であるのです。これについては、「教会の信仰」ということができないでしょうか。イエス様は、私たちの主に依り頼む群れの信仰をご覧になり、この世の中のために祈る心をご覧になっておられるのではないでしょうか。この四人の運び手たちが真剣になって、イエスさまの前に吊り降ろしたように、私たちは、祈りにおいて、この世のことをみ前に運び、主のみ手に、主がしっかりと受け止めてくださることを信じて委ねて、希望を見出したいと思うのです。
 主イエスは、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。主イエスは、私たちの、またこの人間世界の深い罪を赦されるお方です。人間が本質的に持つ、神に反逆するという、その根っこを断ち切られるお方です。その神に反するという根っこは隣人との関係にも、また自分自身にも破壊をもたらすもので、本来自分自身でどうすることもできないのですが、イエス様はその大元を断ち切ることのできる唯一のお方であるのです。その意味で「人よ、あなたの罪は赦された」と主イエスは宣言されます。
 今日の箇所のユダヤ人たちは、そのことに戸惑いました。そんなことができるのは神だけであり、イエスにそんな力もなければその権限もないというのです。しかし、私たち主を信じる者は、このお方に望みを置いているのです。あの四人の仲間たちが、必死になってイエスのもとへ中風の人を運んできた、その彼らの真剣な眼差しをイエス様はご覧になり、顧みられました。その信仰を抱くようにと、今日も私たちにこの物語は語りかけてこないでしょうか。私たち人間の罪の縄目を断ち切ることのできるこのお方に、今一度私たちも望みを置く信仰を与えられて、私たちの生きる現実の中でどうか祈りをもって歩みたいと思います。
 どうか私たちの生きる世の中が、不穏な世界の中にあっても最善へと導かれますよう。また、わたしたちの家族や友人、隣人の一人一人に神様の祝福が届いてくださいますように。
(2017年9月24日 礼拝説教要旨)