呼び集められて

《 イザヤ書 45章2~3節 》
 先日、古本を買ったらその裏表紙の内側に、以前の持ち主のハンコが押してあるのを見つけました。温かみのある木彫りの、芸術的とも言えるハンコがすぐに目に留まり、知る由もない前所有者の本に対する愛着が伝わってきました。また、どのようなことを考えながらこの本を手に取ったのだろうかと頁ページをパラパラと捲めくっているうちに、ふと思い出したことがありました。
 小学生の頃、私の通った学校では生徒たち全員が教科書を学校から借りるということになっていました。新学期に教室で教科書を手渡され、まず最初に裏表紙の内側にある「なまえ」の欄を開くと、そこにはその本を前年度に使った人、前前年度に使った人、前前前年度に使った人と、ちょうど昔の図書貸出カードのように名前が連ねてありました。また自筆というものはどれも個性的で、知っている上の学年の人の名前などがあると、より親しみが湧いたものです。それらの名前を見ながら、自分なりに気持ちを込めて名前をそこに書き入れたことを覚えています。そしてその本を使用しているうちに、自分の勝手な思いですけども、新品の教科書では味わえない彼らとの仲間意識が生まれたような気がします。同じようにこの頁を開いた人たちがいたと、その人格に触れる思いがしたのだと思います。そしてそれは他でもなく「名前」でなければ生じない気持ちだなぁと、思ったことでした。

 聖書には「わたしは主、あなたの名を呼ぶ者」(イザヤ45:3)という言葉があります。この箇所では、イスラエルの民が捕らわれて苦しめられているところから解き放たれ、共々に導き出されることが書かれている箇所です。その際に、神様は人の存在に呼びかけられるようにして、名前を呼ばれました。そして「教会」という言葉も、聖書ではエクレシアと言い、元は呼び出された者たち、呼び集められた人々という意味です。不特定多数の集団で誰が誰だかわからないような集まりではなく、神様に、私という人格としての名前を呼ばれた者たちの集まり、それが教会です。
 普段はそれぞれの歩みをしているのですが、喜びの時、また問題にぶつかった時には、一人一人の歩みが人格としてお互いに響き合うのだと思います。それは、ちょうど自筆で書かれた名前たちを見て生じた、あの仲間意識のようであるかもしれません。それぞれが名前を呼ばれて神様につながっていて、一人一人の生きていることの証しにお互いが共鳴しあう場所、個性溢れる自筆の名前たちが、不思議な形で共鳴し合う場所、それが教会ではないかと思います。そして神様は今日も呼びかけられておられます。

「わたしは主、あなたの名を呼ぶ者。」
(2017年9月10日 野の花の集い/ショートメッセージ)