祈りの家

《 マルコによる福音書 11章15~19節 》
 毎年この季節になると、思い出すことがあります。神学生の頃のある夏、福島県の中通りにあるいくつかの教会を訪ねました。夏期伝道実習の一環で、二週間少々の間にいくつもの教会にお世話になりました。教会学校の夏期学校にも参加し、夏の豊かな自然の中で子どもたちと共に過ごしたことを思い出します。またその間、教会員の方々のお宅にもホームステイをしてお世話になりました。初めて出会う教会の皆さんでしたが、同じ主を信じるということで通じ合う不思議な安心感がありました。特に夜寝る前には子どもも大人も一家がそろい、その日の感謝と主の祈りを祈り、一日を終えるというひと時のことが忘れられません。そのようにして、祈りにおいて通い合う何かがあり、聖書の御言葉が思い出されました。
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)
 この8月も日本各地において、そのような静かな祈りの風景があることを思います。私たちも、心を静めて平和についての思いを深め、祈りつつ日々を過ごしたいと思います。

 今日与えられた聖書の箇所では、イエス様の姿がいつもと違うように思います。平和で慈しみの眼差しを注がれるイエス様ではなく、神殿の中で売り買いしていた人々を追い出し、両替え人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返したというイエス様のことが書かれています。いわゆる「宮清め」という出来事です。なぜイエス様はそうされたのだろうか、またそのことが私たちにとってどのような意味を持つのだろうかということを、共に見ていきたいと思います。
 イエス様がエルサレム神殿に入られると、そこには商売をする人たちが大勢いました。そしてその行為というものは、大目に見られていました。というのは、当時流通していた貨幣は統治していたローマのものでしたけれども、神殿への捧げものには古いユダヤの貨幣を使わなくてはならず、そのため人々は両替人を通して特別なお金を用意する必要がありました。また、ユダヤ教では、エルサレム神殿において礼拝する際には動物の犠牲を捧げる必要があり、それは傷のないものでなくてはならず、特に遠くから旅をしてやってくる人々は動物を連れて来るよりもその場で購入することの方が現実的でした。多くの人々は高価な動物ではなく、鳩を購入したようです。そしてこれらはどこで売り買いされていたかというと、神殿の一番外側にある、「異邦人の庭」という部分であったわけです。そのため異邦人は礼拝に来たのに、それ以上中に入ることは許されず、しかもそこは、両替人や人々のやり取りする声、鳩の羽の音や鳴き声に満ちた場所になっていました。異邦人のことは、どうでもよくなっていたわけです。そこで、イエス様はおっしゃいました。「わたしの家はすべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と。この言葉はイザヤ書56章7節の言葉で、特にイエス様は、語気を強めて「すべての国の人」と言われたのではないかと思います。つまり、神様の前に優劣はなく、皆等しく、誰も差別されることない礼拝をする場所を作りなさいと、おっしゃったわけです。そしてユダヤ人たちが、それらの異邦人のような立場の人々から礼拝する場所を奪っているという意味で「強盗」という言葉が使われています。神殿を強盗の巣にしてしまったと、厳しく言われています。
 ですから、ここは、すべての人々が神様の許へ招かれていることについて言われている箇所であるわけです。そして、イエス様は「わたしの家は、祈りの家と呼ばれる」と言われ、動物の犠牲を捧げるといったことよりも、何よりも祈りというものが第一として大切であることを、また人々の祈りが奪われずに守られる必要があることを人々に言わんとされています。

 日本のキリスト教の歴史を見ると、祈りというものが大切にされた時代がありました。遡ること隠れキリシタンの時代。その時代に人々は讃美歌風の歌にのせて祈りを唱え、それを代々後の世代に伝えました。人々はそれを「オラショ」と言いましたが、もともと伝えた宣教師たちが「オラティオ」と呼んでいたもので、その意味は「祈り」という意味です。皆川達夫さんというキリスト教音楽の専門家が、人々がどのようにしてそれを継承したのかを調べられ、明らかにされた内容はとても興味深いものがあります。
 皆川さんは、今から四十年ほど前に長崎県平戸市に属する生月島いきつきしまという島に伝わる「隠れキリシタン」の歌を調べられました。当時歌い手たちがおられ、実際に会ってオラショがどのようにして伝えられたのかを聞くことができました。それによると、その祈りの歌を人々は代々語り伝えたのですが、それを先輩から習う際は、キリシタン迫害の時代からずっと決して紙に書き取ってはならないとされていました。またさらには、昔は夜中に外に見張りを立てて教える者と教わる者とが布団をかぶって習い、そのようにして代々祈りの歌を守ってきたというのです。
 そして、さらに皆川さんはその歌とメロディーを実際に書き取って、その後、何年もかけてヨーロッパの各国を周り、修道院などの歌を一つ一つ丹念に調べ、そして、最後には、ついにスペインのマドリッドの図書館にあった中世の聖歌集の中に、自分が生月島で歌い手たちから書き取ったオラショと一致するものを見つけるのです。それによれば、それは16世紀のスペインの一地方だけで歌われていたローカルな聖歌であったため、特徴的であったと言います。その聖歌が、その地域出身の宣教師によって400年前に日本の離れ小島にもたらされ、厳しい弾圧の嵐のもとで隠れキリシタンたちによって命をかけて歌いつがれてきたのでした。その祈りを歌いつないだ人々の信仰を明らかにされたという出来事でした。
 祈りを体に覚えさせて、400年もの間守りつないだ人々がいたことにただただ驚かされます。確かに必ずしもその言葉の意味を人々は理解していなかったと言われるにしても、いったい何世代の、何人の人がその祈りを守りつないだのだろうかと想像すると、そこにそれを本当に大切にしたという、人々の生きた信仰の証しを見る思いがします。
 迫害の時代にあって信仰を守り通すこと、そしてその中にあって、与えられた讃美歌や祈りというものをかけがえのないものとして守ってきたことに、私たちも教えられることがあるように思います。当時からすれば今の私たちは、迫害され、それを「奪われる」というような状況にありませんが、しかし私たちに与えられたこの礼拝というものをより感謝すべきこととして、讃美と祈りを守っていくということを教えられるように思います。

 イエス様は「祈りの家」が大切だとおっしゃいました。教会はまさに祈りの家ですし、そしてまた、私たちの生活においても、日常の信仰を守る意味で、「祈りの家」の務めがあるように思います。私たちは、多くのことに心捕らわれてしまうことも実際にあり、そういうものが、私たちの神様を思う心の妨げになることもあると思います。しかし、祈りの場というものが、奪われてはならないということを今日の箇所は伝えていて、それは、本来祈りの生活というものがあるべきところを、他のもので、いっぱいにしてしまってはならないということであると思うのです。

 また私たちは、多くの場合キリスト教とは無縁の世界に生きていることと思います。そして、日々の様々な喧騒の中で私たちは生活し、そういう世の活動の中で生きています。現代社会の状況の中でクリスチャンとして生活していくことは考えてみれば、容易ではありません。時に私たちは、そこから離れて修道院のようなところで生活できたらどれほど良いだろうかとさえ思うことがあるかもしれません。そういう中で、今日の箇所を改めて読むとき、こういうことが言えるのではないでしょうか。それは、私たちの状況というのは、ある意味でこの人々が商売をし、鳩の羽がバサバサと聞こえ、ざわめきの多い「異邦人の庭」のような場所ではないかと思うのです。そして、今日のこの箇所は、私たちが現代社会において信仰を保っていく上での知恵を示しているのではないかと思います。それは、自分という神殿を不必要なものでいっぱいにしてはいけないという教えとして受け止めることができるのではないかと思います。そしてまた同時に、私たちは世にあってこそ、遣わされるべくしてクリスチャンとして、主を証しする者として在るのではないでしょうか。祈る者としてそこに置かれているということではないかと思います。そのような中で、祈りは「守るべきもの」ということを強く意識させられるのではないかと思います。そのことを、主イエスの「宮清め」の言葉に見ることができるのではないでしょうか。

 思えば、主イエスも世に来られました。そこは決してバラ色の場所ではなく、とげと荊いばらの場所でした。その中にあってみ心をあらわされました。そして、神が独り子を賜ったほどに世を愛されたということは、神様には世へのこだわりがあり、この世を見捨てなかったということです。
その意味で、私たちも、神の御心を世にあらわすべくして、遣わされているのだと思います。それは、私たちが世と分離されるような形ではなく、むしろ主がその現実の狭間にあって、戦い、執り成してくださるからこそ、私たちが置かれた場にクリスチャンとして立ち続けることができるということではないかと思います。どうか、主が今週も私たちの信仰を守り導いてくださることを祈ります。また私たちにおいても、そのような「祈りの家」としての意識を心新たにして遣わされていきたいと思います。
(2017年7月16日 礼拝説教要旨)