ピスガに立ちて(塵の上に立つ)

《 申命記34章1、4~8節/ヨブ記19章25~26節 》
   毎年、この5月の天候に恵まれた時期に私たちは、こうして教会墓地の前に集い礼拝を行います。この霊園はキリスト教の墓園で、それぞれの教会墓地に書いてある聖句を見ると「信仰・希望・愛」や「神は愛なり」と刻んであり、あぁ本当にそうだなと直接知らなくても同じ信仰を持つ仲間が沢山いるような気持ちになります。また、その中で、「我らの国籍は天にあり」、との御言葉も多いように見受けました。不思議なもので、クリスチャンの墓地というは私たちの気持ちを本来の場所へと向かわせます。

 墓前礼拝は教会の行事として行うのですけれども、なぜ私たちは墓前にて礼拝を行うのでしょうか。やはり、それは私たちにとって、そうするのがふさわしいことである、ということだと思います。例えば、聖書の中で主イエスが洗礼を受けられた場面があります。その時、洗礼を施すことを躊躇(ちゅうちょ)するバプテスマのヨハネに対して、それを「行うのは、我々にふさわしいことだ」と主は言われました。一つ一つ為すべきことを行うことが大切だと言われました。特に、主は「我々にとって」ふさわしいと言われ、それは、つまり私たちにも必要なことであるということができると思います。人の歩みにおいて大切なことを、御心にゆだねて、心静かに一つ一つを進めていくことが私たち自身にとって必要なことであることを、その言葉に教えられます。そして、その意味では、墓前礼拝も同じではないでしょうか。私たちの歩みには、様々なことがありますけれども、この世に生を受けたその時から、全てのことについて、神様の御手にゆだねることを聖書から教えられているのだと思います。こうして墓前の時に至るまで、御手にゆだねること、そのことが、「私たちに」とって大切であり、そのようにして心整えられるのだと思います。

 先ほどモーセについての聖書の箇所を共に聞きました。モーセが葬られ、先祖の列に加えられた時もやはりそうであったと思います。彼らもまたそのことを、御心にゆだねて為していくことによって、平安を与えられたことと思います。また、特にモーセの場合は、誰も葬られた場所を知らないと記されていて、どのような理由でか、人々には知らされなかったのです。これについては、こういうことが言えるのではないでしょうか。それは人の思わくを超えて神様のご配慮であったということです。モーセほどの指導者であれば、やはり人々はその場所に特別な思いを抱き、大きなモニュメントや建造物を建ててしまったかもしれません。その場所を絶対的な場所にしてしまったかもしれないのですが、神様は、モーセのその場所をひっそりと神様だけがご存じであるということにされたということです。また人に対しては、モーセを神様にお返ししなさい、土からできた被造物は土に返しなさいとおっしゃっておられると思うのです。そして、その名は既にわたしのたなごころに刻んだ、とおっしゃるのです。「見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。」(口語訳)イザヤ書49章16節の御言葉です。今日はそのことを、心を神様の方に上に向けて改めて心に刻む時であると思います。
 モーセは、それまで長きに渡りイスラエルの民を導いた苦難を経て、ようやく辿り着こうとしていた、その約束の地を見るのです。ピスガの山頂に立ち、目の前に見わたす限りひろがっていたのは、神様がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った約束の地でした。しかし、神様はこう言われました。「あなたがそれを自分の目でみるようにした。しかし、あなたはそこに渡って行くことはできない」と。ここから先は、モーセではなく次の世代に託された道であり、モーセ自身は渡ることはできないと言われます。ここに私たちは、神様の定めというものを見るのです。最後に従わなくてはならない務めがあるということではないでしょうか。

 私たちは、墓誌に刻まれ先祖の列に加えられたお一人お一人のことに思いを馳せる時に、そこに神様の定めのあったことを思います。私たちの家族であるそれらの一人一人は、やはり神様の定めに従わなくてはなりませんでした。その一生の長さは異なれど、それぞれが与えられた命を一所懸命に歩まれたことと思います。そして、最後まで主に従う務めを全うされたのだと思います。
 墓地とは、本来多くの人々にとっては、そのものは空しい場所であるように思います。それは灰を納めるところです。信ずるものを持たなければ、行き着く果てという意味で希望のない場所だと思います。しかし、キリスト教の霊園にある墓地は全て、それ自体が信仰を証ししていると言えるのではないでしょうか。その信仰とは、先のヨブ記19章25節の御言葉にある「わたしを贖あがなう方は生きておられ、ついには塵の上に立つ」という信仰です。全ては、土は土に、灰は灰に、と帰せられるのですが、そのお方は塵の上に立たれるお方である、と言います。そのお方があるということを、ヨブは信仰の目で仰ぎ見たのです。そして、私たちもその方と共に塵の上に立つ者とされるということです。

 讃美歌詩人のブライアン・レンという人がいますが、その詩人がこういう言葉を記しました。
「キリスト者が 塵のなかに素足で立ち、そこで歌う時のみ 天の最も高いところで その歌は聞かれる」
 ここでいう塵とは、人間の現実そのもののことで、人が経験する、痛みや、悔しさや、無念と思えるようなことと言うことができると思います。そのような塵にまみれながら、時には足を取られそうになりながらも、素足でその塵の中に立ち尽くすことを言います。そして、まさにそこから天を仰いで、神に賛美を捧げる時、天と響き合うのだと言いました。
 確かにヨブは、人として人生の辛苦をなめた人でしたけれども、そこから、その塵にまみれながら、再び「この身をもって、神を仰ぎ見る」(19章26節)との確信を与えられました。そう思うと先程お名前を聞いた、墓誌に記されているお一人お一人も、その歩みの中においてこの世の塵を経験され、その中から主を仰ぎ見たのではないかと思います。先ほど、「輝く日を仰ぐとき」と歌いましたけれども(讃美歌226番)、やはりそのような地上の証しがあってこそ、そこから「この身をもって、神を仰ぎ見る」ということであると思います。
 その意味で、私たちは、毎年この墓前に立ち、天にあって先祖の列に加えられたお一人お一人のお名前を見る毎に、その証しを思い、そしてそこから共に主をあがめる思いを与えられます。ピスガに立つという信仰の言葉と共に、私たちは、塵に終わることなく、共々に主に贖あがなわれて塵の上に立ち、輝く日を仰ぐということに心を留めたいと思います。その約束に立つ場所、それがキリスト者にとっての墓前という場所ではないでしょうか。どうか、信仰の先達の歩みを思いつつ、私たちも「私たちを贖あがない、塵の上に立たれるお方」を信じ、私たちに定められた歩みを一足一足歩むことができますように。アーメン
(2017年5月5日 墓前礼拝説教要旨)