聖なる新しい生活

《 ヨハネによる福音書 21章15~19節、ペトロの手紙一 1章13~21節 》
 明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。新しい牧師が就任される3月末までの三か月の短い期間ですが、月二回の御言葉の取り次ぎと、毎週の聖研祈祷会の奉仕を務めさせていただくことになりました。説教は、ペトロの手紙一の講解説教を続けさせていただきたいと思っています。聖研祈祷会は1月に教団信仰告白の前文を引き続き学び、その後は、聖書日課に基づいて『日毎の糧』を読んでいこうと計画しています。

 ペトロの手紙を選びましたのは、パウロと違い、一介の漁師から主イエスに呼び止められ、主と共に伝道に従事していましたが、生前の主を十分に理解できないで失敗ばかりを繰り返してきたペトロに、何となく共感を覚え、親しみをもったからです。
 そんなペトロの手紙は、ユダヤ教の教師で当時のエリートであったパウロとは違い、教理を教える部分と、生活を教える部分が分かれていないのです。パウロの手紙は、最初に、主イエス・キリストの教えの部分を明確に語ります。そして、それに続き、だから私たちはこのように生活しようという教えの内容に移り、信じる人の生活の仕方を理路整然と述べています。
 しかし、ペトロはそうはしないのです。ペトロにとっては、キリストの救いを語ることと、私たちのこの世の生活を語ることとは、切り離すことができないほど互いに絡み合っているので、自分自身の生活体験から滲み出た想いを正直に語るのです。キリストが洗礼を受けて神の子にかなうものとされたように、私たちも洗礼を受けた以上は、実に積極的に勇敢にこの世を生きることができるのだと教えるのです。私たちは神の国に属する者、この世には故郷をもたないのだということを本当に徹底的に悟ったとき、むしろこの世に対して真実に勇気をもち、神に生かされ、この世の荒波の中でこの世のために生きる民として生活することができると気づくのです。ヨハネ福音書にもある通り「キリストに従う」ことに定められたのです。
 詩編90篇はモーセの歌と言われています。1~2節は、この永遠の神の中に私たちの住処(すみか)があり、私たちはそこに住むと歌うのです。日本のキリスト教会も、戦後の困難な時期に、我々の住み家は天国にあると歌い続けて耐え抜いてきたのであります。そして、今現在も、度重なる苦難に遭遇しても、喜びの声を上げて歌い続けているのです。この世の苦しみや誘惑と戦い続けるのです。

 13節に「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現われるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と記されています。「心を引き締め、身を慎んで」とありますが、平常心を保ってキッチリとした生活を送るという意味です。ある聖書では「酒に酔わないで」と訳していますが、のんべんだらりとした生活をしないことです。
 のんべんだらりとした生活とは、夜になると酒を飲み、気持ちよい酔いでその日の苦労を忘れようとする、不安を取り除こうとすることです。夜になって眠ることもそうです。眠って夢心地になることで、現実には不可能なことも可能になります。酒に酔うにせよ、夢幻の中に過ごすにせよ、昼間の現実から逃れ出る境地になります。酔ったり、夢を見ることは、現実から逃げることです。真実なこの現実の世界の姿を、自分自身の姿を見ようとしないのです。
 修道院の修道士達は、掟に従って、しばしば夜を徹して祈りました。厳しい修道院では、前夜の最後の祈りと、翌朝の最初の祈りの間は、4時間程度しかありません。4時間眠るだけで祈り続けるのです。人々が酔ったり夢を見たりしている間に、修道士たちは現実を見つめ、この苦しい現実からの救いのために、平常心で祈り続けます。平常心で生きるということは、まさしくこの、夜に祈る修道士の姿にこそあらわれています。このような現実的な感覚、しかも祈りに生きる心が、平常心という意味です。
 宗教や信仰や祈りは、人間を陶酔させて現実を直視することをやめさせてしまう、アヘンのようなものだと批判する人もいます。しかし、聖書の理解は全く逆です。聖書に従って現実の人間の生きる姿を見る人はそうは考えません。この世の現実に立ち向かって生き続けることができるように、いつも心を引き締め、身を慎んで、必要な時にはいつでも飛び出る準備をしているのです。しかも、現実をしっかりと見つめています。それが身を慎むことであります。

 さらに大事なことは、この世の人間の現実に陶酔することなく、直視すると、私たちはたいていの場合、悲観的になってしまいます。日本の超高齢化社会の現実の姿を、真正面には見ていられないと、多くの皆さんは思っておられるに違いありません。物価が上昇し続け、収入がなかなか上がらない経済下と、戦争が終わりそうにない悲惨のどん底にあるかのような現実。しかし、そのような現実を、ただ誠実に見据えなければならないとしますと、悲観と不安の中に落ち込んでしまうだけでしょうか。
 決してそうではありません。キリストが再び現れてくださるときに、神の国が完成されるという希望を、わずかも疑わないで待ち望めと、ペトロの手紙は語り続けるのです。平常心で見るのは、ただこの世の現実だけではなく、この世の現実を恵みをもって祝福してくださるためにキリストが必ず来てくださるという希望です。否、キリストは既に一度来てくださっているのです。そして死んで甦ってくださったのです。ペトロの手紙一1章1~12節でペトロが丁寧に語っている、信仰者の幸いです。
 この世での私たちの現実の生活が、どんなに悲惨で苦しい状態であっても、神様の救いの恵みに、洗礼を受けることを通して包み込まれているのです。その祝福の現実を、主日の説教や聖書日課を通して見ると、それを見抜けるようになります。そのために酔う必要はまったくありません。これが、神によって祝福された聖なる者の現実なのです。平常心である人こそ、この現実を直視できるのです。
 この神の恵みの事実を、信頼をもって見ることができないとき、私たちは非現実的になり、とんでもない誤解をしてしまいます。宗教的な営みには、現実を忘れさせる神秘的な陶酔体験が不可欠だとされています。そのような意味で、聖霊体験が必要であるとさえ言われることがあります。しかしながら、ここで求められているのは、平常心であります。昨年の統一教会絡みで国会でも議論されたような、マインドコントロールでは決してありません。

 ペトロの手紙一1章17節に、「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と記されています。この手紙は、キリスト教会が最初に迫害を受け始めた頃に書かれた、信仰者への励ましの手紙です。試練の中にある人たちに、どのように信仰者としての生活をきちんと送ったらいいのかを、心を込めて語っているのです。最初に神を畏れて、すなわち神をとことん信じて、愛して生活しなさいと語ります。公平に裁かれる方と記されています。相手の顔を見て差別しないという意味です。何年信仰生活をしていようが、していなかろうが、神はそれぞれの生活を正しく御覧になって公平に判断されるのです。
 こういう公平な神様を軽く見ない、見くびらないことが大切なのです。神を見くびると、キリスト者全部が間違いを犯すことになります。迫害にさらされながら必死に生きていた当時の信仰者の置かれていた状況、それは、「せっかく神を信じているのに、否、神を信じたばっかりに、私たちはこんなにひどい目に遭いました。神様どうしてくれますか」と開き直りたい気持ちだったと思います。そのような人たちにペトロは、誰よりもその神様を、心を込めて「畏れなさい」、「信じなさい」、「愛しなさい」と励ますのです。
 神を「畏れる」のは、まだ教会にも来ない誘惑に負けて神に背くことばかりをしている人たちなのであって、私たちは改めて神を畏れる必要はない、ということではありません。私たちキリスト者こそ、神を心から畏れることを知っているのです。さらに申せば、神をまず「畏れる」心、信じる心、愛する心からこそ、苦難にも耐えて生きるたくましい生活も生まれてきますし、真実の望みに溢れた生活も生まれてくるのです。神を見くびったり、軽く見たりすることなく、むしろ、神に対する「畏れの心を持って生きる」ということは、どんな生き方であるのかを語るのが、ペトロの手紙の一貫したテーマなのです。

 14~15節で、「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣(なら)って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」とペトロは続けます。
 「従順な子となり」と言います。神を父と知った人は、これまでの無知な自分勝手な想いに生きる生活を捨てます。聖なる者として生きる道です。神が聖なるお方であられるように、私たちもみな聖なる者となって生きるのです。聖なる者として生きるということは、大昔にイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトから出て行ったように、私たち自身が、これまで守ってきた古い生活から出て行くことが求められているのです。
 ここで大切なことは、15節の「生活のすべての面で」という御言葉です。あらゆる行い、あらゆる生活が変わる。ひとつひとつの振る舞いが変わるということです。これまでの振る舞いとは、先祖伝来から伝えられてきた古い生き方、18節の「むなしい生活」です。気をつけていないと陥る、生きた屍のような中身のない空っぽな生活です。さきほどの言葉で言えば、酔ったままで現実に即していない生活です。そういう生活から一歩踏み出して、神のものに成りきる生活です。それが無知を捨てるということです。賢くなるということです。

 当時のキリスト教会は、現在よりもずっと小さいものでした。生まれたばかりの新興宗教みたいなものであり、その中で生きようとしても、絶えず勇気を失い、望みを失い、しかもすでに抜け出してきたはずの空しさの生活を引きずって歩むところがあったのだと思います。空しい生活の抜け殻みたいものを引きずって、それと戦いながら、毎日聖なる生活の中へ踏み込んでいくような生活です。
 18節の最初は、「知ってのとおり」で始まります。ここから21節までの文章は、教会の中で語られていた信仰告白ではないかと思います。私たちは、教会に集まるごとに使徒信条を告白します。私たちが教会に持ち込んでくるものは、私たちが先祖伝来、慣れ親しんできた罪の現実です。それが私たち人間の現実だとしか言いようがないものです。私たちの空しさを示すものです。この諦めの気持ちが続く限り、どこに望みがあるのかと思うほどです。しかし、主日の礼拝にこのように集まるごとに、さらに私たちが神様から与えられた信仰に事実として告白するのは、私たちがその空しい生活から「贖(あがな)い出された」ということです。
 旧約聖書の「コヘレトの言葉」は、その終わりまで、金や銀も全て空しいということを繰り返し語り、最後に「神を畏れその戒めを守れ」と結んでいます。ペトロも、そんな金や銀によってではなく、私たちがキリストの尊い血によって、空しさから贖い出されたと語るのです。空しさから救い出されたと言うのです。キリストによって引きずり出されるとき、私たちがなお引きずっている古い自分が邪魔をしてはいけません。キリストによって本当に引きずり出していただき、導き出していただくために、私たちの古い性格を脱ぎ捨てるのです。

 今朝、これから私たちは、聖餐にあずかります。この聖餐にあずかるとき、私たちの言葉を超えて、この主イエスが備えてくださった食卓が、このペトロの言葉を証しするのです。金と銀と知識によっては空しさに打ち勝つことはできません。私たちは、空しさに打ち勝つために、たくさんの財産を貯めたり、哲学書を読みあさりたいと思うかも知れません。しかしそれでは、真に空しさに打ち勝つ道は拓けないのです。
 私たち自身にしつこく巣食っている罪が作り出している空しさに打ち勝つ道は、主イエス・キリストの血潮です。神の前においては、罪は実に重いものです。公平に裁かれる神の裁きには耐えきれないほどです。しかし、その私たちの罪を拭うために、キリストの血が流されたのです。キリストの恵みの勝利はもう見えたのです。そのキリストの恵みの勝利が見えなければ、私たちはただ死んでしまうだけです。
 何もかもがぼろぼろになっていく肉体を抱えながら、なおも望みをもって生きていくのが、真の現実的な生き方です。「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」、ぼろぼろの肉体をもつ人間を贖い出している血、その血が私たちを揺るぎない神の現実の中に立たせてくださるのです。そのときには、たとえ肉体が弱くても、何もできないひとりの人間でも、それこそ誰にも優る聖なる者として生かされるのです。そしてそれが、私たち信仰者に許されている大いなる道なのであります。
 新しい年も、この道に招かれるために、姿勢を正して主の食卓にあずかりたいと思います。

【森田好和牧師】
(2023年1月1日 新年礼拝・説教要旨)