驚きの出来事

《 イザヤ書 64章1~4節、ルカによる福音書 1章34~38節、コリントの信徒への手紙一 2章6~9節 》
 キリスト教の伝道が始まったのは、使徒言行録に書かれているように、ペトロを中心とした弟子たちが驚いたからです。主イエス・キリストが十字架に付けられ、殺され、葬られたのに、その墓から生きて帰ってこられたということは、誰もが想像もしなかった、驚愕すべき出来事でした。キリスト教の伝道は、そのことで驚いた弟子たちが、その驚きの事実を、そのままに伝えたものです。
 そのことは現代においても全く変わることはありません。教会の伝道が振るわないとすれば、それは教会自身が、そのことについて驚いていないからかも知れません。であれば、主イエスのご誕生はどうだったのでしょうか。聖書をよく読みますと、これに関係あった人たちは、みんな驚いていることが分かります。
 マタイによる福音書は、ヘロデ王の時代に、占星術の学者たちが不思議な星を見て、驚いて、エルサレムにその星を拝みに来たと述べています。その話を聞き及んだヘロデ王も、エルサレムの住民たちも、それがあまりにも思いがけない出来事だったので、驚くだけではなく、不安にもなってしまったほどでした。
 ルカによる福音書1章34節には、受胎を知らされたマリアの驚きの様子が書かれています。それを知った婚約者であるヨセフの驚きは、さらに深刻であったに違いありません。自分がどうしたらいいのか分からないほどに、驚いたに違いありません。その他、羊飼い、宿屋の人々、どの人もみな驚きました。それは誰にとっても思いがけないことであり、到底あり得ないような出来事だったからです。それは本当に、死人が生き返ったほどに、驚くべき出来事でした。
 それなのにクリスマスは、赤ん坊が生まれたというごく普通の出来事であるために、多くの人は驚きませんでした。その生まれたお方が、神の御子であることに気づかなかったからです。全ての人間にとって、考えられないような、不思議な救いが現われ出たことを、考えようとしないからです。「どうしてそのようなことがありえましょうか」。このマリアの言葉こそ、クリスマスを知る鍵なのです。
 
 教父イグナチオスは、「御子の誕生と十字の死は、神の沈黙の中に行われた」と申しました。御子の誕生は、普通の赤ちゃんと同じように、一人の女性から生まれたので、驚くべきこととは思われないでしょう。御子が十字架にかかって死なれた時にも、三本の十字架が一緒に立てられ、御子はそのうちのお一人でありました。見ていた人には、何の区別もなかったことでしょう。どちらの時も、神は沈黙をしておられました。救い主が生まれたと、御使いが告げました。しかし、そのしるしとなるものは、飼い葉桶にくるまったみどり子というだけでした。何の説明もなく、他の多くの赤ん坊と同じように生まれ、多くの犯罪者と全く変わりのない死に方でした。ですからクリスマスも、少しも驚く必要のないことになってしまったのです。 
 神はなぜ、沈黙しておられたのでしょう。そして今も、沈黙しておられるのでしょう。それは説明しても、説明しきれないところがあります。自分で、この事実を見て、その気にならなければ、どうしようもないからです。
 例えば奇跡のことです。人間は、神が奇跡を行って、驚かせて下されば、自分たちも神を信じるようになると言います。しかし、事実はそれと反対です。人間は、奇跡だけに目を奪われてしまい、神を信じるということにはなりません。例えば、病気を治していただくことがあったら、そのことに感謝はするでしょう。しかし、だからといって、続けていつまでも神を信じるということにはならないようです。その次に奇跡が起こらなければ、違う神のところに行ってしまうのです。
 こうして見ると、「奇跡が起これば」というのは、「いつでも自分の思い通りになれば」という思いであって、そのような利己的でわがままな人間が、神を信じることができないのは当然なことです。
 不思議なことを数え上げれば、私たちの周囲にはたくさんあります。自分のこの体だって、不思議なことばかりです。その働きの不思議さは、考えれば考えるほど、驚くほどのことです。ならば、それを知り尽くしている医者が、皆、信仰者であるかというと、決してそうではありません。これはこういうことで、こうなるのだと説明ができれば、もう不思議さは解消したように考えてしまうからです。
 こうして見ますと、神が救いをお与えになりながら、特別な説明もなさらないことが分かってくるのです。ここに与えられた救いを見て、それを受け入れる気持ちにならない人には、他の方法ではどうしようもないからです。つまり、キリストにより救いが示されて、悔い改めることができない人は、どんな神の恵みも、恵みとして受けることができないのです。
 他人の好意が分からないという人間がいます。身勝手で自分のことしか考えない人間は、他の人から親切にされても、当たり前のように思い、それを感謝することができないものです。神様に対する人間の態度も、これと同じことだと思います。自分の身勝手さに気づくまでは、神様から与えられたその身勝手さを救う救いすら、受け入れることはできません。

 コリント信徒への手紙一2章1~2節には、このように書かれていました。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。伝道するのに『優れた言葉や知恵を用いませんでした』とパウロは語るのです。私たちの考えからすれば、そういうものを用いた方が役に立つのではないかと思います。しかしパウロは、それは有効ではないと思っているのです。なぜならば、そういうものでは、人を真に悔い改めさせることはできないからです。パウロも、十字架の事実を突きつける以外、何もしなかったというのであれば、神様が、救いをお与えになるだけで何も説明なさらなかったことも、不思議なことではないのです。ですから、驚くことができないと神様のせいにするのも、人間の身勝手に尽きるのです。
 ある説教者は、「神が父でいらっしゃるのは、われわれが、この神を呼び求めることができるからであり、また、その民に対して、恵み深く接してくださるからである」と話しておられます。それは神が、いつまでも待っていて下さるということです。自分はお前たちの父だと言って、威張り立てることはなさらない。しかし、私たちが心から「父よ」と呼び求めると、すぐにそれにお応えになるように待っていて下さるのです。信仰を持って神の民となった人に対しては、いつも、恵みをお与えになろうとして待ち構えて下さっているのです。今にも飛び出さんばかりにして、待っておられるのです。ちょうど、子供が歩き出した時の、親のように、手を差し出し、「さあ、来なさい」と言いながら待っておられるのです。ヨチヨチ歩きの子供を見ながら、「そうだ。しっかりしっかり」と言っているようなものです。手もとまで来れば、すぐに抱きかかえて下さるのです。無理に手を引っ張ってみても、子供は歩けるようにはなりません。こちらで待っている他はないのです。
 もしもその時、子供が、「手を取ってくれないから、親らしくない」と言って怒ったなら、どうでしょう。親が待っていることが分からなかったら、どうでしょう。それなのに、人間は歩いていこうとはしないのです。それは、人間が神を求めないで、自分を求めているからです。神の恵みを信じていないと、生きていけない自分なのに、自分の力で、神のなさることぐらいはやれると思っているからです。神に造られた人間であるのに、自分で生きてきて、自分の力で何でもやれると思っているのです。神が待っていて下さるのを、神は、何もしないで、ただ、人間が神を求めるのを待っておられるのであると、勘違いして。ですから、自分の力で何でも造れると思い、そして、自分が神に代わって生きていけるように考えてしまうのです。そして、ついには、人間の力と知恵だけで、神を待つことを忘れ、神なしに生きていけると思ってしまったのです。
 しかしながら、このような自己中心的な考えでは、正しい生活は生まれてくるはずはありません。とは言っても、実際は、私たち誰もがそのような生活をして、自分のことを一番大切に思って生活しています。神を信じて生きるのでなければ、他人に御世辞を使うとか、自分を売り込んで生きるしかなくなり、自分で自分の立場を悪くするばかりです。
 反面、私たちにはその反対の傾向があります。自分を厳しく裁いて、自分は駄目だと思い込んでしまうことです。自分を宣伝する人は、実は、自分は宣伝する値打ちがないことを一番よく知っています。ただそう言ってしまっては、生きていけないと思って、強がりを言っているだけです。一方で、自分を宣伝しながら、自分は駄目だと思うのです。そこでは、自分は駄目だと言いながらも、本当に駄目だと思っているわけではありません。自分を本当に裁いているのではないのです。ただ自分を、自慢するだけのものがないのだと言い、悔やんでいるだけです。自分を省みて謙虚になっているのではありません。謙虚でしたら、自分は駄目だと思ったなら、そのまま素直に受けとめるはずです。しかし、ただ自分が駄目だと思う時には、そのことが辛いのです。悔しくなるのです。だから、謙ることをしなくなるのです。
 コリント信徒への手紙二10章17~18節で、パウロはこう語っています。「誇る者は主を誇れ」。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」。これを現代風に言いますと、主イエスを待ち望む者こそ、最も確かな人である、ということになるのです。
 主を待ち望む人とは、主イエスによって救われた人です。主の救いが来るのを、山々が動いたように、大きな力強いことと知り得た人です。イザヤ書64章1~2節には、神の救いが与えられた状態のことを、「国々は御前に震える。あなたの御前に山々は揺れ動く」と記しています。神が私たちの世界においでになったとき、まるで天が切り裂かれたように思われたのです。クリスマスは、まさにそういう出来事です。

 それを知るためには、神が御子をこの世にお遣わしになった事情を、マタイによる福音書21章33節以下にある、「ぶどう園と農夫のたとえ話」を読まなければなりません。
 ある所に、ぶどう園を持っている人がいて、それを農夫たちに貸して旅に出かけました。やがて、収穫の季節が来たので、収穫を受け取るために使いの者を遣わしました。しかし、農夫たちはこれを追い払いました。何度かこれを繰り返した末に、自分の子なら敬うだろうと思って、息子を送り出しました。ところが農夫たちは、これは跡取りだから、これを殺しさえすれば、もうぶどう園はこっちのものだといって殺してしまったという話です。
 この話は、誰が聞いても、主イエスご自身のことを言っているのだということが分かります。だとすると、神の御子である主イエス・キリストをお遣わしになるまでに、どんなに神が忍耐されたのかということが分かります。この世は全て神のものです。ですから、神のものらしく扱わなければならないはずです。それなのに、人間は神にお返ししようとはしないのです。神は色々と手を尽くされましたが、だめでした。それで、とうとう、御子をお遣わしになったのです。最後の手段として御子が遣わされたのです。人間的な表現を致しますと、思い余って、なさったことです。それが驚くほどのことにならないはずはありません。神が考えに考え抜かれてなさったこと、そして、御子を遣わすという、全力を尽くしてなさったことです。そのために、天地が揺り動いたとしても、何ら不思議なことではないではありませんか。この世は、それに、少しも気がつかなかったのです。この世は、神に造られたことさえ、気がついていないのです。この世を神が支配しておられることも、少しも感じていないのです。御子が来られたことも、まったく同じです。しかし、救いを待ち望んでいた信仰者から見ますと、それは驚くべき出来事、山が動くよりも大変なことであると分かるのです。

 クリスマスの夜、私たちは、ただ一人で神の前に立つのです。他のことは、皆、消えてなくなります。神の前に立った自分の問題は、罪と死です。この地上の短い生活の中の、成功とか不成功とかいうことは、大した問題ではありません。世界の平和が問題になるとしても、それも、人間の罪としてです。自分の罪が分からないと、どうにもなりません。私たちは、自分の罪と死が怖ろしいまでに強く、どうにもならないことが分かっているのです。そして、クリスマスの喜びは、ついにこの罪と死が、神によって滅ぼされたことを知る喜びです。罪と死の怖ろしいほどに強力なことを知った信仰者は、それが打ち破られることに、心からの驚きを感じるのです。人間の最後の敵と言われた死が、滅ぼされたのです。こんなことをして下さる神がどこにあっただろうかと驚くのも、無理のないことです。これがクリスマスの出来事です。これが、待ち望む人々に約束されていることです。
 パウロはこのことを、コリント信徒への手紙一2章9節で、少し表現を変えてこう語りました。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」。主イエスの復活が、聞いたことも、見たこともなかったことであったように、御子が来られることも、聞いたことも見たこともなかったことです。それはただ、神を愛する人、神を待ち望む人だけにしか分からないことです。そうであるならば、私たちも神を待ち望む者となって、この恵みを、心から驚いて受け取りたいものです。放蕩息子は、自分の失敗に気がついて、父の御許に帰る決心をしました。私たちも、待降節のこの時に、父なる神の許に帰っていこうではありませんか。
 使徒信条の解説で、現代の名説教者である平野克己牧師は、「悔い改めとは自覚して光を仰ぐことだ。十字架によって新しく造られている自分自身に驚くことだ。そのことによって使徒たちは罪と死の悪魔が力が造り出す敵意の壁、民族の壁、国境の壁を乗り越え、神の国の領土を広げる旅を続けました」と、説いておられます。

【森田好和牧師】
(2022年11月27日 待降節第1主日礼拝・説教要旨)