確かな希望に生きる

《 コリントの信徒への手紙一 15章50-58節、ヨハネによる福音書 6章34-40節 》
 愛する人に先立たれますと、年月が経つにつれて記憶が薄らぎ、その人たちとの関係が遠くなるかと言いますと、決してそうではありません。むしろ先人たちの記憶は、信仰ゆえに年々純化され、清められていきます。それだけに人間は、死によって絶たれた故人との関係は、年ごとに確かなものとなり、自分の生のいっそう大切な部分となってゆくと言えるのではないかと思います。
 日本キリスト教団では、毎年11月の第一主日礼拝を「聖徒の日」・召天者記念礼拝と呼んで、全国の教会で記念の礼拝を捧げることになっています。勝田台教会でも、このように故人のお写真を飾り、ご親族の皆さんをお招きして共に礼拝を守り、礼拝後にはささやかではありますが、召天者を偲ぶひとときを持つこととしていますが、コロナ禍にある今年は、残念なことに交わりの時は中止せざるを得なくなりました。
 ここにお写真を飾らさせていただきました皆さんや、ラザロ霊園に埋葬されている兄弟姉妹は、戦後の苦しい時代を信仰を堅くもって生き抜いてこられたお方が大半で、讃美歌の461番を歌って歩んでこられたのです。この讃美歌は、詩編23編がもとになっています。「主の手にひかれて」には、「この世の旅路を あゆむぞうれしき」が続きます。苦労は苦労でも、この方々の苦労は、ただの苦労をしておられたのではなく、神様に信頼して手を引いていただいて歩んでこられたのです。
 詩編の作者は、多くの苦難を経てこられたようです。「死の陰の谷を行く」ほどの困難な中で、神様に守られ、幼子のように神を信頼して、魂の全き平安を得て感謝を捧げています。
 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」との一節は、全編を貫く全き信頼と平安と喜びを高らかに歌います。「何も欠けることはない」とは、自分の欲しいものはすべて手に入るという意味ではなく、主は私の必要を御存じであり、その必要を必ず満たして下さるという意味です。
 このことは、2~3節を読めばはっきりします。この羊飼いは、青草と水と憩い(中東の砂漠生活では、不可欠なもの)を恵みとして羊に与え、さあ旅を続けなさいと命を回復させて下さるのです。しかもその道は、羊飼いが導いて下さるだけに、最も確かな正しい救いの道です。この導きは、主なる神が義なるお方として救い主として崇められるためであると言うのです。主に守られる旅は続きます。
 4節では、困難が特に大きかった頃の悩みと主の守りを振り返り、感謝と信頼の祈りを捧げています。羊たちは、死の陰の谷のような恐ろしい事件に襲われても、恐れることはないのです。羊が深みに落ち込まないように、杖で守って下さいます。さらに、人生の終わりに、老・病・死に苦しむ死の陰の谷を行くようなときにも、必ず主は傍にいて下さるという意味です。
 5節では、神は客をもてなす主人のように、私を苦しめる様々な苦難の前で、私を守り豊かにもてなしてくださるようなお方です。そして将来に向けて、命の続く限り慈しみの神との交わりに生きる幸いを歌います。
6節の「追う」というみ言葉は、神の慈しみはどこまでも私を追跡して、必ず私を捉え祝福して下さると言っているのです。そうすると、神の慈しみ(愛)によらないで生きていくことはあり得ないということです。「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」。主の家は、エルサレム神殿を指しています。教会のことです。勝田台教会です。どこにいようとも、神の家に属する者として、日々神との交わりに生き、生活するということです。この詩の「わたし」は、悩み苦しみの中で愛と慈しみの神に信頼することを学んだ作者個人であると同時に、イスラエルの民全体であり、さらにキリスト者個々人と、また教会であるのです。
 ヨハネ福音書では、羊飼いである神は、主イエス・キリストに肉体となって宿ったと、1章14節で記されており、このキリストは「善い羊飼い」であり、ご自身の命で命の水と命のパンである青草で、羊を養って下さると述べています。6章40節で、主イエスは私たち信じる者に対して、「永遠の命」という賜物を与えて下さると申されています。主は、私たちの心と体を神の命で満たして下さるということです。私たちは、肉体が食物であるパンによって支えられているように、神との交わりの中に永遠に入れられるということです。永遠の命を持っていても、私たちの肉体は死を迎えるのですが、永遠の命を持つ信仰者は、神の前からいつまでも失われることがないということです。ですから、ここに永眠者とされている兄弟姉妹は、死んで地上の私たちのもとから去られましたけれども、主イエスの御手の内から失われたわけではないのです。主は、この方々をしっかりと捕らえて下さり、彼らはこれからも主イエスとの交わりの中で神に覚えられていくのです。この兄弟姉妹は、地上の私たちのもとからは取り去られましたが、神のもとから失われたのではなく、主イエスと結びつき、いつまでも神に記憶され、神の中に生き続けるということです。このことをまず、私たちの幸い(慰め)としたいのであります。
 しかし、ヨハネ福音書が語っていることは、それだけではありません。39~40節で、もっと驚愕すべき主イエス・キリストのお約束が語られるのです。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」。このみ言葉こそ、キリスト教の極致を語ったものです。これは皆さんが、毎週礼拝で告白する使徒信条の、「からだのよみがえり」という言葉です。主イエスが再び来られる終わりの日に、もう一度、人間は新しい体で甦ると言っているのです。ここでわたしたちは、キリスト者にはこのような希望が与えられていることを、真摯に受け止めたいと願います。
 現実の社会は、科学的合理主義が主流を占めるようになって、「死によってすべてが終わる」「永遠の命とか死後の世界というものは、死を恐れる現代人が無理やり考え出した世迷い言であり、根拠がない」という考え方が強くなっています。したがって、キリスト者でもこのような現代の風潮に流され、このような覚めた目で死後のことを捉え、信仰はこの世をうまく生き抜くための道徳的教訓のようなものだと割り切っている人が多くなっているように思います。霊魂不滅も、死後の世界も、体の甦りも、もはや現代人が信じることができない古典的、前近代的な観念だと考えるのです。
 本当にそうでしょうか。神のお造りなった人間は、魂だけの人間ではなく、体を持った人間です。神は、お造りになった私たち一人一人を慈しんでおられ、私たちが罪の中に滅んでしまわないように、ご自分の大事な独り子をこの世に遣わして下さいました。大変なことをしてくださったのです。そこまでなさって下さったからには、主イエスを信じる私たちが死んで跡形もなくなってしまう、そのようなことを神は納得されるはずはありません。それでは、あまりにも中途半端で、空しすぎます。体の甦りという最後のところまで行き着かないと、神の救いの御心は完成されません。ですから体の甦りは、神の私たちに対する愛の帰結だと言えるのであります。
 人間は朽ちない体に復活する、これが聖書によって私たちに示された究極の希望です。このことはパウロが書きましたコリントの信徒への手紙一15章に明確に説明されています。私たちがより頼みとしますのは、このような約束を与えて下さった神の力、その恵みの真実なのです。また、希望の拠り所は、主イエス・キリストが死人の中から甦ったという事実、そして私たちはその主イエスから洗礼を受けて結びついているという事実です。使徒信条にありますように「からだのよみがえり、永遠の命を信じます」ということを本当に心から告白して、実感として自分のものにしているということです。今日、私たちがこのように召天者記念礼拝を告白することを求められていますものは、正にこのことです。この甦りの希望ということを、本日、皆で共に確かめあって帰りたいのです。
 私たちは、天に召された家族や信仰の先輩である皆さんとは教会でお会いすることはできませんが、時々夢でお会いすることがあります。夢と言いますのも不思議なもので、見ている時は彼らが死んでしまわれたということに気付かないものです。見ているとき、そこにいるのが当然のことのように思ってその人たちと話をします。夢の中では、死んだはずの人が生きていることを疑いません。私はここ数十年間の内に、多くの肉親や教会の兄弟姉妹をなくしまして、時々そのような経験をします。夢で再会するのです。私はなき祖母、亡き父、亡き母、亡き兄弟姉妹と夢で再会しました。そして復活の希望といいますのは、例えて言いますならば、このような夢が現実になるということではないだろうかと思うことがあります。神の国では、召された家族や兄弟姉妹との再会は夢ではなくなるということです。全能の神の力によって疑いようのない事実になるのだということです。これがキリスト教信仰の極意です。そこに信仰者の本当の幸い(慰め)があるのです。
 現代の科学や知識が、どんなに永遠の命や復活を否定しようとも、神の言葉によって断固としてそれを信じる、そこに信仰の本領があるのです。人間が主イエス・キリストとの交わりに生きますならば、死んでも神から離れることはありませんし、終わりの日には、主イエスがそうであられましたように、必ずや新しい朽ちない体をもって甦らされるという、そういう希望です。この信仰が、私たちの中に芽生え、育ち、大きくなってきたときに、私たちは、全ての悲しみや苦難を凌駕する大きな慰めをもつことができるのです。
 そしてさらに、自分自身の死についても、いくらかの準備ができるようになるのです。主イエスは、ヨハネ福音書11章25~26節で、こうおっしゃられました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
 私たちは今日、このように、永遠の命と復活の希望を持って、天に召された家族や兄弟姉妹のことを想い出したいと思います。そして、主イエスに従う生活を知って、これからも毎週の礼拝を忠実に守る信仰生活を続けたいと、切に願いたいと思います。

【森田好和牧師】
(2022年11月6日 召天者記念礼拝・説教要旨)