聖書が語る生と死

《 エゼキエル書 18章30-32節、ヨハネによる福音書 11章25-26節 》
 ヨハネ福音書に、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と、衝撃的な主イエスのお言葉が記されています。
 エルサレム近くのベタニアという村に、マルタ・マリア・ラザロという二人の姉妹と弟が住んでいました。弟のラザロが重い病気にかかり死に瀕している時に、姉妹のマルタとマリアは、主イエスに早く来てほしいと連絡します。ところが主イエスは、なぜかラザロが死んでから到着したのです。マルタは、21節にあるように、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。マリアも姉と同じことを言うのですが、主は、ラザロを葬って四日目に墓穴に行き、「ラザロ、出て来なさい」(43節)と叫ばれ、ラザロが甦った記事が続きます。この場面を理解するためには、同じヨハネ福音書5章25節の、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」という、主イエスのお言葉を知らなければなりません。それと同時に、その背景には、エゼキエル書37章の「枯れた骨の復活」の預言があることを前提にしなければなりません。
 この主イエスのお言葉をお聞きしますと、ふつうは誰もが、「そんなばかなことがあるものか。イエスを信じたら死ぬことはないなんて、あるはずがない。キリスト教徒だってみんな死ぬではないか」と考えるでしょう。復活とか、死んでも生きるなどというのは世迷言で、だから宗教は迷信という以外にないではないかと言う人も多いのです。私のような、キリスト教の土壌がない土地で育った人間は、特にそうでした。聖書はなんと不思議なことが書いてあるものだという印象をもっていました。
 エゼキエル書18章30~32節に、預言の言葉が書かれていて、「死ぬ」とか「生きる」ということが話題になっていますが、「死」はどうやら神に背いた罪の裁きとしての死を意味し、「生」は悔い改めて神に立ち帰り新しい心と新しい霊によって生活することを指しているようで、私たちが通常使う「生き死に」とは違うようです。聖書の「生」や「死」は、どうもそれとは違っているようです。
 新約聖書のギリシャ語の「命」を指す言葉は、「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスは、生理的・肉体的な命。心臓が動いているとか、脈があるとかという領域の命です。ゾーエーは、人格的な命。人間が生きたいとか、人間らしく生きたいとかいう命です。
 自分の欲望に従ってしか生きていない。まるで動物のように勝手気ままに生きている。一人の人格を持った人間として生きていない。自分も誰かを愛し信頼するような関係をもっていないと孤立し、自分の存在理由、存在意味、存在目的を失い、もはや人格的命としては生きていけないのだとの認識に達します。人格的命は、愛し愛され、信頼し信頼されるという人格的交わりにおいて生き生きとするものなのです。人間は、愛を呼吸していないと死んでしまう存在なのです。人間が人間らしく生きるという状況を備えようとするならば、愛しあえばいいのではないか、信頼しあえばいいのではないかということになります。愛と信頼の共同体、すべてにおいて人が平等で、互いの人格を尊敬し、人権を尊重するような交わり、そんな社会を作りたいというのが、人類全体の願いであり、希望です。しかしながら、人類の歴史が始まっておよそ五千年と言われますけれども、いまだその理想が実現されるに至っていないのです。そこで人間は、果たして自分たちだけで愛し愛され信頼し信頼されるような人間関係・人格的交わりを構築できるだろうかという問題が持ち上がってまいります。それができないと、人間の力だけでは人格的な命を生きることは到底できない、ということになってしまいます。聖書が問いかけるものは、実は、そのことなのであります。
 人は誰しも、愛したい信頼したいと願っています。あるいは、愛されたい信頼されたいと願っているのです。人間が人格的に生きたいと願っているのに、そのようにできないのは、エゴが一人ひとりの人間の心に例外なく絡みついており、自己疎外を引き起こすからなのです。それが「生きる屍」現象を人間にもたらしているのです。実はここに、聖書が語る「生」と「死」の問題が明確に絡んでいます。
 神に愛され信頼されたにもかかわらず人は、神の信頼を裏切り、神との交わりを壊してしまいました。それは人間に巣くうエゴのゆえであり、自分の利益となる範囲では神を拝みますが、自分の利益にならず犠牲を強いられ損をするとなると、神を軽視し無視し抹殺して、自分を絶対化し、自分が神であるかのごとく振る舞うようになってしまいます。その神に反逆する力、そこに働く自己中心性エゴが、罪と呼ばれるのです。そして同じエゴが、人間相互の間にも働くので、同じ罪が神と人間との交わりを壊すだけではなく、隣人同士の交わりをも破壊すると、聖書は語っています。キリスト教は、この人間の罪の問題を、正面から取り扱います。自己と他者との人格的関係は、神とばかりではなく、夫婦の関係、親子の関係、友人との関係、いずれにも当てはまるものです。初めのうちは、利害関係から出発する訳ではありません。しかしながら人間は、究極的に、他者を愛し抜くこと、信頼しきることはできません。自分の利益となる交わりは続けますが、自分が損をするような交わりは切り捨ててしまいます。そこに、人格的命の枯渇、死が訪れることになります。
 このように見てまいりますと、先に引用しましたエゼキエル書18章30~32節で神がおっしゃられることは、罪を悔い改めて神に立ち帰り、新しい心と新しい霊とを造り出すことに関係しています。神と人との交わりを回復することが、「生きよ」という呼びかけの内容なのです。それでは、主イエスの言われたヨハネ福音書11章25~26節の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」をどう読めばいいのでしょうか。
 まず第一に、ここで問題にする命は、人格的な命のことです。第二に重要なことは、エゼキエル書は旧約聖書で、罪を犯したイスラエルに対して、悔い改めて立ち帰り生きるように求めている呼びかけの預言ですが、ヨハネ福音書は新約聖書で、主イエス・キリストにおいてその預言が実現したことを記しているわけです。つまり、罪を犯して生ける屍状態にある人間に対して、主イエスは死から決定的に立ち帰らせる復活として存在し、命の与え手、否、命そのものであることを宣言しているのです。従って、罪を犯して人格的に死んでいる人でも、悔い改めて洗礼を受けて主イエス・キリストを信じるならば、決して命を失うことがないと宣言されているのです。
 それでは、この主イエスのお言葉を、さらにはっきりとさせるために、第一の弟子シモン・ペトロとの師弟の交わりを見てみたいと思います。主イエスの招きを受けて弟子たちは、職業を捨て、財産を捨て、家族とも離れて主イエスに従いました。主イエスと寝食を共にし、病める人、貧しい人、社会からつまはじきにされている人たちに神の愛を告げ、癒しを与え、社会復帰に協力しました。律法によって神の支配とは縁の遠い人、縁のない者とされ自他共に罪人と考えられていた人たちが、神の支配のうちに自分を見出せるように、働きかける活動に従事したのでした。その意味で弟子たちは、主イエスの愛と信頼を受け、またこれに応えた人たちであり、シモン・ペトロはその中心人物でありました。
 大切な点は、そうした主イエスと弟子たちの愛と信頼の共同体の上にそのまま、神の支配・神の国が建てられ、のちの教会が建設されてきたかと言いますと、そうではないという事実です。主イエスの神の国運動とも言われる活動は、最後には、ユダヤ教指導者たちのねたみ恨みの結果、宗教裁判にかけられ、ローマ総督の手で主イエスが死刑の判決を受け、十字架上に非業の死を遂げるといった形で挫折してしまったのでした。
 その十字架に磔(はりつけ)にされる前の晩、最後の晩餐と呼ばれる弟子たちとの食事の席で、主イエスは、「あした自分は捕らえられ、殺されるであろう」と発言します。弟子たちは口々に、「そんなことはありません。そんなことがあれば自分たちが阻止します」と言います。シモン・ペトロは、「他のだれが逃げようとも、自分は最後までイエスといっしょに行動します」と言い切るのです。ところが、それから数時間後に主イエスがいざ逮捕されると、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、シモン・ペトロもまた例外ではありませんでした。しかしさすがに彼は、あれほど大口を叩いた手前、気がとがめたのでしょうか。こっそり、主イエスが裁判されている法廷に忍び込み、成り行きを見守ります。徹夜の裁判で庭の篝火(かがりび)が燃え上がり、ペトロの顔が照らし出されますと、そこにいた人の中から声が上がります。「あなたはイエスの弟子ではないか」、「イエスと一緒にいたではないか」、「同じガリラヤ訛(なま)りではないか」。愛し信じここまで来たペトロにしてみれば、そこで、「そうです。私は主イエスの弟子です。さあ、主イエスを殺すのなら私も殺してください」と言いたかったのではないかと思います。ところが、彼の口からとっさに出てきた言葉は、「いや、わたしは彼を知らない」「彼とわたしとは無関係だ」というものでした。
 そこに人間のエゴの罪が露呈しています。最後に愛を裏切り、信頼を破壊してしまうのです。そしてこれは物語ではなく、歴史上の事実だったのです。主イエスを三度までも知らないと否定したペトロは、外に出てさめざめと泣いたと記されています。それが現実の人間の姿です。シモン・ペトロは、今や、生ける屍なのです。しかしながら、もしそこで終わっていたなら、キリスト教は生まれませんでした。主イエスは殺され、弟子たちは逃げてしまった。そこで終わりであったはずです。
 ところが、新約聖書は不思議なことを記録しているのです。すなわち、殺されて墓穴に葬られたキリストが、三日目に死人の中から神様の力によって甦(よみがえ)り、弟子たちが隠れていた場所に姿を顕(あらわ)し、「平安が、あなたがたにあるように」とおっしゃられたというのです。復活された主イエスが弟子たちに、「わたしは、罪人のあなた方と共にいる」とおっしゃったのです。彼らを裁き滅ぼす神としてではなく、弟子たちの罪を赦し救う神として共にいてくださると言われるのです。弟子たちは一瞬にして悟るのです。現行犯で罪を犯して、自分たちが罰せられず、滅ぼされず、神がまだ愛し続け信頼し続けていてくださる。それはあの主イエスの十字架の死が、私たちの罪のための代償死であったからに違いない。主イエスは、避けようとすれば避けられたのに、御自身の意思で十字架に付かれた。それは私たちのためであったと。そうであればこそ、弟子たちは、「あなたこそわたしたちの救い主、メシア、キリストです。あなたはわたしたちのために罪の償いとなってくださいました。それゆえ、わたしたちはわたしたちが死すべきところを助けられ、罪を救われました。そのあなたの愛に応えて、今度こそあなたを愛し、あなたを遣わされた神を愛します。また、あなたに愛されたその愛でもって、隣人を愛します」と告白せざるを得なくなったのです。それが、私たちが使徒信条と呼んで毎週告白している信仰告白の原型となったのです。
 私たちは21世紀の超高齢社会の時代、経済的には豊かで物が有り余っている時代に、突然襲って来たコロナの蔓延もあって、生きることの不安、淋しさ、空しさ、孤独から生じる絶望感等を身に沁みて感じて生活しています。そこから救われて慰めを得るためには、このままの生活ではどうにもならない状態にあるのでありまして、真の悔い改めがどうしても必要となるのです。人間が悔い改めて、自分自身が新しく生まれ変わらなければ、この問題の解決の道はないということであります。

【森田好和牧師】
(2022年10月2日 礼拝説教要旨)