信仰と実感

《 創世記12章1-4節、マルコによる福音書9章14-29節、ヨハネの手紙一4章16節 》
 教会の中で、「信仰のことは一応分かったと言うけれど、どうもいまいちピンと来ない」ということをよく聞きます。ピンと来ないというのは、一応分かっているのだけれど、実感として湧いてこないということでしょう。これは、言われてみれば、それに近い感じ方をしている方が、案外多いのではないかと思います。そこで今日は、信仰と実感ということを、ご一緒に考えてみたいと思います。
 信仰と実感という問題を考えますときに、思い浮かんでくる言葉は、『死に至る病』等の著書で有名な、デンマークの哲学者キェルケゴールの美しい言葉です。「枝の鳥、森の鹿、川の魚、そして無数の楽しげな人々が神は愛なりと歌っている。しかし、これらのソプラノの下にあたかも潜められたベースのように、十字架につけられたまいしお方の声が深き淵より響く。いわく、神は愛なりと」。信仰の実感ということは、この言葉でほとんど言い尽くされています。実感となった信仰というのは、枝の鳥、森の鹿、川の魚と一緒になって楽しげな人たちがソプラノで歌う、「神は愛なり」という言葉です。このときに、「神は愛である」ということが実感になっています。実感になっているから、歌声が明るいソプラノになるのです。実際、幸せだなということが実感になって告白できるときがあります。ところが、果たしてこれが信仰と呼べるのかという疑いが生まれてきます。
 例えば、気候として毎日感じる暑さ寒さは実感で、皮膚感覚です。今日は暑いということを、信仰することはないと思います。信じなくても暑いのです。体温とか気温とかいうものは、実感できるものだから、信仰の対象にはならないのです。そこで、もし神の愛が気候と同じように実感の対象となるならば、神の愛は信仰の対象にならなくて済むわけです。ここが重要なところでして、キェルケゴールはそこを指摘しているのです。多くの楽しげな人たちが、空の鳥や森の鹿と一緒になって、神は愛なり、幸せだと歌っているけれど、そういうふうに歌えない人たちもいるのです。そのとき歌うのを止めてしまって、神もキリストもあるものかと神を呪う言葉になるのです。ところがキェルケゴールは、「神は愛である」ということをソプラノで歌えなくなっても、歌う方法がある。それは、ベースで歌う方法だというわけです。これが信仰告白の非常に深い意味・秘訣でして、実感になってソプラノ調で歌えるときは信仰は必要ないのです。神の愛が実感となって受け取られるというときは、有頂天になって非常に誘惑の多いときであって、信仰が必要なくなるときです。信仰がものを言い始めるのは、神が愛なりとどうしても歌えなくなる時です。「神も仏もあったものか」と呟き始めた時が、信仰の本番の幕が開くときです。ところが、人間は愚かですから、信仰の本番が来た時に信仰を止めてしまうのです。キェルケゴールによれば、信仰というのは、いろんな問題が起こってきてソプラノ調で歌えなくなったときから始まるというのです。だとしますと、超高齢化時代の真っただ中に生きる現在の日本社会にこそ、最も必要なのは「信仰だ」と思われてなりません。
 今日の聖書の中心となるのは、マルコ福音書9章24節です。「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」。これは、特に苦しいときには、とっさに出てこなければならない祈りです。文語訳では、「主よ、われは信ず、信仰なきわれを助けたまえ」です。父親は「信じます」と言っているのです。信じているのです。けれども、不信仰なわたしと、すぐに付け加えるのです。不信仰なわたしという告白は、信仰は実感にまでなっていませんという告白です。神の愛は分かっていますし、信じています。けれども、神が愛であるということを、暑いとか寒いということと同じように、実感となって皮膚感覚になるほどに受け取ることは不可能です。わたしはその意味で不信仰な者と言われても致し方のない人間です。そのわたしをお助けくださいということであります。
 つまり、実感とならない信仰を持って神の助けを祈っているというのが、この父親の信仰であって、この父親の信仰で十分だと思っています。私自身を含めて、信仰者はこの父親のように祈っているでしょうか。もし、「主よ、私は信じます。信仰ある私をお助けください」と言うのであれば落第です。初めの箇所は聖書の通りですが、信仰ある私をというところから聖書と違ってくるのです。聖書で信仰告白というのは、どこまでも信仰の告白であって、実感の告白ではありません。実感では、「主よ、信じます」とはとても言えません。「神は愛である」とは言えません。とてもソプラノ調では歌えませんが、ベースで神の愛を告白し続けることが本当の信仰告白であって、実感とはならないけれど、信仰は生きているという場合です。ここまで申し上げても、何ともスッキリしないと思われる方が多いと思われます。それは何となく分かったけれど、どうしても信仰が実感となって欲しいという気持ちがあるからです。どうしたら実感となった信仰を持って神様の前に出ることができるのか、そういう時期がいつ来るのかというのが、今日の私のお話したいことの中心です。
 実感とならない信仰とは、神の愛の内に包まれていないとき、神の愛から外側へ落ちているときに、信仰は実感にはなりません。アダムの子孫である私たちがエデンの園から追放されエデンの東、楽園の外側で生きているということは、神の愛の外側に落ちて生きていることですから、神の愛は実感できる対象ではなくなっているのです。神の愛の外側は、神の愛を実感できるところではありません。例えば、千葉の中で生活しているから今日は暑いという実感が湧くのであって、寒い北海道で生活しているのであれば、千葉と違ったところで住んでいるのですから、暑いという告白はできなくなります。神の愛に背いて、神の外側に落ちていることが、私たちのいろいろな人生の矛盾として現れてきます。この父親の場合には、息子が苦しんで歯を食い縛って泡を吹いて転げまわっていることです。これが実感なのです。高齢者となって、老・病・死の苦しみの中に置かれている私たちの姿です。その姿を前にして、どうして神の愛を受けていると告白できるでしょうか。神は呪われるべきものだという告白の方が、正直な告白となるでしょう。けれども今日、私が皆さんに申し上げたい要点は、そういうわたしたち、不信仰なわたしと言わざるを得ないようなわたしたちも、信仰したらピンと実感できるかということです。
 今まさに苦しみと悩みの中にある人は、特に私を含めた高齢者は、実感となり得るような信仰がどうしても欲しいのです。それは、神の愛の内側から外側にこぼれ落ちて、神の愛の外側で生活している私たちを、神が再び内側に引き入れて下さるとき、外を内に入れて下さる神の愛は実感の対象となります。不信仰なわたしをと言って告白している父親が「主よ、信じます」と言えるときは、いつかと言えば、その神の愛の外側に落ちているこの父親を、苦しみ悩みの多い日々を送っている私たちを、神の愛がもう一度内側に引き入れて下さるときです。もう一度内側に入れて下さっているということは、主イエス・キリストの十字架によるわけです。十字架というのは外の人間を内側に包み込む愛です。袋の中の錐のように、どうしても包めないものを内側に包む込むときには、苦も無くはできない、痛みを感じなければできません。その苦しみ・痛みが、主イエス・キリストの十字架の業です。私たちの実感の対象は、どこまでも十字架のキリストになります。ここで問題は、その十字架のキリストに私たちが信仰をかけるとき、すなわち神を信頼するときに、それが実感となるかということです。頭で分かっていてもピンと来ません、ということは、ここでは絶対許されないのです。なぜでしょうか。それは外側に落ちた私を、内側に入れて下さっている神の愛は、必ず実感できるからです。神の愛の内側に入っているからです。神の愛の内側に入れられた人には、必ず実感できるのです。不従順となっていた私を愛して下さる神の愛に包まれた以上は、その神から離れられなくなり、従順となって神の中に留まらざるを得なくなります。
 エデンの園から外側へ落ちている者、エデンの東に落ちている私が、神の愛の内側に入れられているのですから、外と内との戦いになって、この父親のような込み入った告白とならざるを得ないのです。「主よ、信じます」と言いながら、その舌の根も乾かないうちに、不信仰な私をお助け下さいとは一体何のことかという気もするのですが、そうではありません。これこそが正直な信仰告白です。私たちは、神の愛の外側に落ちて実感できないようなところにいます。神は呪われたものとしか思えないところです。息子が倒れて泡を吹いているのを見れば、そう思わざるを得ないのです。けれどもその私を、その息を、高齢者となって老・病・死の苦しい生活に置かれている私たちを、神は愛の内に包み込んで下さるのです。その包み込んで下さる神の愛は、実感できるのです。落ちた人間を包み込んで下さる神の愛は、実感の対象になるのです。主日の礼拝を通して必ずや実感できるようになるのです。
 従いまして、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」の「信仰のないわたし」というのは、日ごと夜ごとに克服されていかなければなりません。そして、主よ、信じます、お陰様で信仰が実感になりました。昨日よりも今日が実感となりました、と言って感謝できるようにならなければなりません。そうでないと、いつまで経っても不信仰なわたしというものに固執してしまって、あなたはもう助けてくれてもいいのではないかと居直ってしまいます。実に神に対して横柄な態度になって神の愛から離れてしまうことになります。これではどうしようもありません。信仰はピンと来なければいけないのです。外側に落ちたわたしを内側に引き入れて下さる愛、外を内に包む愛というこのキリスト教理解は極めて単純です。節分の豆まきの言葉で説明できるのです。「鬼は外、福は内」の、あの内と外とを借りて福音の本質は説明できるのです。
 ソプラノ調で「神は愛なり」と歌えなくなる日が、時が、信仰の勝負所です。その歌声が出なくなったときに、神は呪わしいというのは信仰ではありません。一種のわがままな直観にすぎません。直観はわがままなもので、どうにでも変わります。しかし、神の愛というのは、どこまでも信仰の対象であって、どのように境遇が変わっても、どのように私たちの生活環境が変わったとしても、私たちにとって神の愛は依然として神の愛です。「神は愛なり」という歌声は絶えることはないのです。絶えないけれども、歌い方が違ってくるのです。ソプラノ調ではなく、ベース調になったという点が信仰告白です。これを宗教改革者ルターは、「隠された神」という神学で教えてくれたのです。神はご自身を啓示されるとき、あくまでも隠された神として、怒りの仮面の下にご自分を隠してご自身を示してくださる。だから、この神に対する私たちの態度は、見ることではなく、実感する態度でもなく、どこまでも信じる態度でなければなりません。信じることは、見えないから信じるのです。私たちはいつの間にか、信仰を見えること、実感すること、に置き換えようとする欲求を持っているのです。神が愛であるということが、皮膚感覚のように実感できる間だけ告白し、少しでもそれと食い違った苦しい状態に置かれるようになると、信仰告白を止めてしまうのですが、これは真の信仰生活ではありません。
 今日は、何か難しいことを申し上げたようですが、ソプラノとベースの違いは、信仰の気づきの深さの違いで、できるだけ早く気づいていただきたいものです。つまり、見ることによらず、信仰によって歩むのが信仰者の歩みなのです。その信仰の歩みは、見ることができなくなってから、本番が始まるのです。非常に残念なことに、本番の幕が開かなければならないときに、閉じてしまうことが多いのです。神を信じることを止めたということです。信仰していても、何にもいいことがない、年を取るに従って苦しみ悩むことが多くなって、人生の幕まで閉めてしまうことになってしまいます。これは、あってはならないことです。とても神は愛であると信じられなくなったときにこそ、信仰は告白されなければなりません。これだと、絶対に変わることがないのです。けれども、皮膚感覚のように、今日は暑いとか暖かいということが実感できる間だけ信仰が告白され、ちょっとでも皮膚感覚が違ってくればやめたということになるのだったら、信仰ほど頼りにならないものはありません。実に変わり易いものになってしまいます。信仰は、永遠者に結びつくことですから、神は永遠に変わらないように、私たちも変わらないものに目を向けなければなりません。永遠に変わることのない信仰が、どういうときに生まれるかと申しますと、外側から内側に入れられるときです。外の人を内に呼び入れて下さる神は、十字架の神です。その十字架によって、私たちはその深い淵の状態から、「神は愛なり」と告白し続けることができるようになるのです。否、すでに洗礼を受けている人は、そう告白できるようにしていただいているのです。特に、勝田台教会の皆さんは、今年度の教会聖句を愛の手紙と呼ばれるヨハネの手紙から選んで、「神の愛の内に留まる」ことの喜びを実感とし、感じておられることと思います。

【森田好和牧師】
(2022年9月4日 礼拝説教要旨)