神様に出会い、教会で交わる

《 マルコによる福音書 9章42~50節 》
 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 病気の人を訪問する時に私が最も注意することは、その方との信仰による交わりと、神様との出会いです。病気の程度にもよりますが、苦しいところを通ってこられた方は、一様に神様に対する思い、求める心が大変強くなっております。そんな時に気を配ることは、その場で共に神様に対する新たな出会いを経験することです。そして共に祈ることです。牧師として病床訪問ができることを、私は大変うれしく思っております。牧師になる前と今とでは、病床訪問が多少違っております。牧師になる前には教会の中でも、あまり知り合いでない方が病気のときは、なかなか訪ねられませんでした。一般的に教会では、病気の方を訪ねるのは、おもに女性の方々、特に教会生活が長い方々によって行なわれている場合が多いと思います。たまに壮年の方々も訪ねることがあると思います。主の交わりを大切にすることを考える時、決して病気の人が主の交わりから、外れることがないようにと願います。教会では、神様を中心とした集いですから、互いに励ましあいたいと考えております。病床訪問ではそういう意味で、お見舞いに行った私達も、信仰によって励まし励まされることがよくあるのです。
 病気が重くて気落ちしているだろうなと思って行きますと、逆に元気で、命の逞しさや、神様に対する感謝を感じることがあります。なによりも感じられるのは、ヨブ記に記されている御言葉が、そのまま当てはまるということです。つまり「裸で母の胎を出たのだから、裸で帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」という御言葉がありますが、死を目前にしている方は、まさしくこのような姿になっているのです。何も身に纏っていない裸であると言うことです。つまり、自身が本当に何も重荷を持っていないと感じるならば、はなはだ気が楽です。地上のものは何も持っていくことができない。だからそれらをすべて外して、身体ひとつとなっているのです。病床訪問するとそのような方に多く出会います。「裸で帰ろう」です。神様に絶対の信頼を寄せている姿に出会います。先日天に召されたⅠ兄もそのような姿でした。神様や家族に信頼し、身体一つで委ねて生きているのです。病床訪問をして、信仰の出会いが強く感じられるのはそういう時です。
 ある高齢の方で、病床訪問に出かけたときに、背中に大きな床ずれができて苦しくて体を引っかいてしまうために、ベッドの鉄柵に両手を包帯で縛られている方がおりました。もう意識もはっきりしていないのですが、それでもいろいろと話しかけてみますと、私の声を聞いているのです。帰るときにお祈りをすると、口をあけてアーメンとかすれた声で言うのです。このように、祈りを大切にする病気の方は、訪問すると意外に大勢います。その時にこそ信仰の交わりを感じるのです。この方は信仰によって神様に生かされてきたことを感じます。最後に残るのは信仰です。こういう時こそ、人が輝いて見えるのです。それは魂の輝きです。それは暑い夏にコンクリートの上にある「一滴の水」のようにキラキラと輝いているのです。
 もうひとつ、私が30代の時にお世話になった、旧約学の神学者の葬儀に出た時の話です。神学校の礼拝堂での追悼の会でした。この先生は晩年、仙台市で息子さん夫婦の近くで暮らしていましたが、お連れ合いを先に天に送り、一人で暮らしていました。そして、自分も病を得て看病してもらうようになりました。息子さんのお連れ合いに見てもらったそうです。それまではいろいろ神学を学んできたけれども、病を得て体が動かなくなってきたとき、息子さんのお連れ合いによく看病してもらいお世話を受けて、「人を愛するとはこういうことなんだ」と、初めて人を愛することが分かったと言っていたそうです。もう自分では何も持っていくことができないし、身体が動かなくなってようやく重荷をおろして、初めて愛されることを実体験したそうです。本当の感動があったのでしょう。弱くなっている方々が、実は命輝いていることの発見は、大変うれしいことです。また、天に向かう途上で、体験として愛することを受けたことは、本当に感謝すべき事柄です。
 今日は、逆に普段から弱く小さい者をつまずかせないようにとの勧めです。42節「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」です。小さな者とは、子どものように弱く小さな者を筆頭に、病気の者や当時取るに足りないと思われていたような人々です。イエス様が愛される小さく弱き者を、社会に同調して差別したり、無視したりしてつまずかせてはならないと言っています。イエス様を求めてきた子どもを拒絶することのないように、弱く小さな者を受け入れなさいということです。世の中で価値が小さいと思われている人を受け入れなさいとの勧めです。もっと言えば、そのようにすべての人を同じように受け入れなさいとの勧めです。
 たとえば、教会に初めて訪ねてきた人を、あるがまま受け入れることが大切です。私たちは全員宣教に派遣されたものです。教会の中にも宣教のために遣わされています。初めてきた方が、自分が受け入れられたという感覚がないと、愛の信仰が明確に示されなかったとも言えるでしょう。その意味では、キリスト者は宣教において自分自身が為すべきことを明確にしておきたいものです。教会の雰囲気は、なんといいましても教会に集う者一人一人が醸し出す雰囲気であるからです。それはどのようなことでしょうか。信仰が示されるとはどのようなことでしょうか。その信仰の輝きとはなんでしょうか。信仰者は何を信じているのかを考えて、そこから学んでみたいと思います。何を信じているかによって、受け入れる対応が異なってくると思います。
 一冊の本があります。『キリスト者は何を信じているか』というタイトルの本です。使徒信条について解説した著作で、オランダの神学者のA・ファン・リューラーが著したものです。使徒信条のはじめ、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」の中の、ここの「信ず」のところを解説しております。すなわち信仰とは何かを説明したものです。
 信仰とは第一に知ることです。人は信じているものを知っているのです。夫婦はお互いを知っていますし、親子でもそうでしょう。そのように信仰とは神様を知ること、そして神様が語られ、なされたすべてのことを知ることです。人は神様がなさったすべての行為を通して神様を体験するのです。漠然としたものを信じるのでなく、神様がどなたで、神様によって何を得ているかを知るのです。つまり、信仰者は神様を自分なりに知っていると言うことです。それは何かの像を拝んで、自分の願いをその像にこめて満足するのではありません。すなわち、私たちはイエス・キリストを知っているのです。
 信仰とは第二に、承認することであります。人は神様に賛成し、神様と意見を一致させます。人は神様を正しいとして、神様の側にたちます。打ち砕かれて人間は、神様と一致し、同じ意思を持つようになります。人生の労苦は、頑なな心を打ち砕き、イエス様の十字架の苦しみを僅かながらでも覚えて、正しい道へと導かれるためのものです。そして、やがて人生に調和がとれ、心に平安を与えられます。つまり、ただ単に知るのみではないということです。承認すると言うことは、そのお方と共にあることを表しています。信仰とは第三に、神様を信頼することです。神様はこの世を救うことを約束されました。その事を信頼し神様に自分を委ねていくことです。自分自身の醜さと世界の混乱を見るだけならば人は絶望してしまいます。罪ある自分のことを神様に任せ信頼する時、すべてが神様の御手のうちにあることを確信することができるのです。つまり、じたばたしても、もがいてもどうにもならない自分の発見です。そして、だからこそ信頼するのです。
 信仰とは、神様を知ること、承認すること、信頼することであり、その結果、自然と賛美がうまれ、奉仕を行い、忍耐をすべきことは忍耐するのです。このように、教会は初めて訪ねてきた人に対して、信仰の内容を踏まえて、自らの信仰を輝かしていたいものです。その輝きを見て、教会とはこういうところだと見ていただけるでしょう。
 まして、私たちの信仰を見てつまずくことがあってはならないのです。聖書でも、小さなものをつまずかせないように教えております。自らの信仰をしっかりと保ち、つまずきを与えないようにすることです。初めて教会にきた方、求道中の方、信仰生活が短い方、年齢が若い方々はつまずきやすいのです。つまずきは、教会に背を向けることです。そのことは神様に背を向けるということです。つまずかせることの反対は、どんな人でも受け入れることです。イエス様はいろいろな人を受け入れました。たとえば徴税人や、弟子の中には熱心党のものもおりました。イエス様を裏切るユダもいました。さらにはファリサイ派をイエス様は批判されましたが、食事に招待されれば、招かれていきました。さらに幼子を受け入れ、イエス様と「逆らわない者は味方である」として、別のグループの宣教活動も認めました。ご自分の立場は明確にしつつ、さまざまな人々を受け入れていきました。なにより私たち自身が神様に向き合い、受け入れてくださるイエス様との出会いに向かって進んでいくべきであります。その同じ方向へ、皆を導くことが大切です。
 そして今日の聖書の注目すべきことは、なによりもまず自分自身をつまずかせないようにとの勧めです。その教えは大変強烈で、手も足も目も、つまずく原因のものは取り去ったほうがよいと言われるぐらいです。神様を信じ、礼拝し、主の交わりを持ち、イエス様に従っていく、そのあらゆる場面で、つまずきを避けなさいとの勧めです。それは自分自身の信仰の中に、塩味を持って行きなさいということです。つまずくことが原因で、礼拝から足が遠のく人がいることも事実です。また自らも、礼拝に出られなくなることがあります。私たちの心は大変弱く、礼拝に出られるのに出ないと、心が萎えてくるのです。礼拝で神様に出会い、教会で主の交わりを持たないと、どうしても、自分の都合で物を考えてしまうようになり弱ってきます。信仰とは、知ること、承認すること、信頼することであり、それを踏まえて神様にすべてを委ねていきましょう。その信仰の中心は神様の愛です。どんな時でも、神様が私たちを愛してくださっているということを見出していきましょう。必ず見出すことができます。聖書を通して私たちに語り掛けられる、神様の言葉の中から見出していきましょう。見出すことが難しくなるのは、人生の困難によって、信仰が弱くなるからです。そうではないのです。弱った時にこそ強いのです。神様は、人間が通る困難を通しても、私たちを強く愛しておられます。私たちの近くにいて、私たちを離さないのです。そのことに気づき、神様の愛を受け止めることができるのです。人生の嵐の中で、私たちは神様に信頼して、神様の愛を見出し、神様の勝利を確信するのです。

(2024年2月25日 主日礼拝説教要旨)