《 マタイによる福音書 11章25節~30節 》
その時、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」
11章に入り、バプテスマのヨハネとイエス様について語られています。ヨハネはたいへん厳格な生活をして、野蜜を食べるような罪を犯さない生活をしながら、もうすぐ神様の裁きが起こるから悔い改めるようにすすめ洗礼を授けていました。それに対してイエス様は大食漢で大酒のみと見られていました。たくさん食べてたくさん飲んで、罪人と共に楽しく過ごしていました。イエス様が人々を受け入れるとき、その人の立場に立って受け入れていました。自分が2階にいて人々を引き上げるのではなく、イエス様は1階に降りてきて平場で多くの人を受け入れるのです。しかし、あまりにも自由にイエス様が過ごしているので、律法遵守はどうなのかと周りの人は思いました。罪人と一緒に酒を飲んで、一緒に罪を犯しているように見えたのです。そこでイエス様は、いったいどうなっているのだと疑問がわいてきました。それに対してすぐ前の聖書箇所で、罪を犯せばあなた方は滅ぼされると、イエス様は言っていました。律法を軽んじたわけではなく、罪を犯せば裁かれるのは当然だと告げています。そうすると、一体イエス様の真意はどこにあるのでしょうか。自由と裁きが混在して中心はどこにあるのでしょうか。人々は迷ったと思います。罪を気にしないように見える大食漢で大酒のみと言われるイエス様が裁きのことにも言及しているので、どのように振る舞えばよいか疑問になります。罪を犯さざるを得ない者としてどう生きればよいのか。
そこで今日の聖書が示され、親しみのある御言葉が載っています。一つ目は「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」という28節の言葉です。有名な聖句ですから多くの方がご存じで、この御言葉を好きな方もおられると思います。教会の掲示板にも、よく取り上げられ書かれる聖句です。私が27才で結婚するときに、仕事上の3歳年上の先輩で、この方はクリスチャンでしたが「板に聖句を墨で書いたものをお祝いとして差し上げたい」と言われ、当時この聖句を書いてもらいました。結婚するのに、最初から重荷を負って苦労するですから変な話ではありますが、当時気に入っていた聖句でしたからプレゼントしていただきました。その聖句は、いまでもリビングルームに飾ってあります。その先輩は5年前に天に召され、母教会で葬儀をしたのですが、青森出身の方で2世のクリスチャンでした。生前の信仰生活では、重荷を負っているという感覚は全くなかったと見受けられました。生まれた時からクリスチャンホームに育ち、心が軽くなっているようでした。2世のクリスチャンは違うと思わされました。どうしてそうなのかは、1世のクリスチャンには分からないところがあります。生まれた時から教会に通っているので、そうなのかと思いました。私は重荷という意味をその時は正確には分からなかったと思います。たぶん重荷をこの世の思い煩いのように取っていました。そこで「私のもとに来れば重荷を降ろし休ませてあげます」と理解していたのです。今もそのように受けとることも可能です。つまり聖書はすべてが解き明かされて自分のものになるかというと違います。聖書を読んだとき神様の御言葉としてその人のものになります。教会で聖書全体の解き明かしを聞くには何十年もかかります。二つ目の言葉は「私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」です。家畜の軛に比べ、人間が軛をしたら重く窮屈で身動きが取れなくなりそうです。それでもイエス様の軛は軽くて負いやすいというのです。
これら二つの聖句をどのようにとらえればよいのでしょうか。まず「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」はどんな意味でとらえられているでしょうか。重荷を負っている人をどう考えるかです。当時の社会的状況を見ると、病気に苦しむ人、傷つけられた人、仕事に失敗した人、困難を抱えている人ととることができます。そうすると、その人たちを休ませてあげようとなります。重荷はこの世の思い煩いなのです。イエス様がその人たちの思い煩いを解放して安らぎを与えると理解するのも、間違いとは言えないでしょう。ただ、思い煩いに対して「あなたがたを休ませてあげよう」と休息を与えることだけに主眼を置くのであれば、他の方法でも重荷の癒しは与えられます。そうではなく、イエス様が言おうとした本当の意味は別にあります。それは、苦労とか不幸とか傷ついたとか挫折した等とは別のことです。罪に汚れた人間が、神様の前に清く正しい者として認めていただくようにするのは、私たちの願いであります。そのときに、清く正しくなろうとしても、重荷を負わせ圧迫する人たちがいたのです。それがファリサイ派の人達です。いったいどうやって重荷を負わせたかといえば、当時のファリサイ派は庶民に次のように教えたのです。モーセの律法を厳しく守り、平凡な生き方では追いつかないので、努力に努力を重ねるように教えていました。つまりファリサイ派の人たちのように清さに貪欲でなければならないのです。一部だけ清くなろうとするような不徹底な清さでは望ましくなかったのです。例えば安息日を本気で守るのであれば、安息日に買い物をしてもいけないし、歩く距離も1キロ以内に限られ、どんな労働もしてはならず、神様にだけ思いを集中するのです。起床後お祈りして就寝前にもお祈りして、金曜日の日没から土曜日の日没まで体を清く保ち、汚れてはいけないと教えられるのです。
こういう厳しい教えと圧力の中では、息をつく暇がないほどで人々は強迫観念に縛られます。ファリサイ派の完全な教えから完全でないものを見ること、すなわち100パーセントの遵守から80パーセントの遵守を見下ろし、自分は20パーセントも足りないと考えるなら、自分は不足しているという観念にとらわれます。100パーセントできて当然だというファリサイ派と80パーセントしかできない一般の人にわかれます。そこで80パーセントの人は、律法遵守においては失格者で救われないのではないかと自信喪失になるのです。そのようなときバプテスマのヨハネやイエス様が出てくると、こちらがよいとヨハネのもとに行ってみたり、また、奇跡を行い80パーセントの人を受け入れるイエス様のもとに来てみたりするのです。ところがイエス様は大食漢で大酒飲みと評判が立ちましたから、一体何が正しいのかわからなくなるのです。するとファリサイ派の人々は律法を守れないのならば、身の程をわきまえ、それなりに生きなさい、あなたがたは救いのない「地の民」なのだと上から目線が来るのです。言われた人は下から目線で、常に見上げてうな垂れ肩身が狭いのです。ここで考えるべきことは、律法を守らないと見捨てられ救いがないと言われたことは、ファリサイ派が作りだした論理だったのです。イエス様はそのようなことを言っていません。イエス様は罪人の友となってくれるお方です。重荷で耐えきれない人は私のところに来なさい、そうすれば、あなた方を解放しますと言われました。ファリサイ派や律法学者に重荷をのせられて、自分で上手く生きていけない人は私のもとに来なさいと言っています。決して罪を攻め立ててあなた方を混乱に陥れたりしない。正しい生き方を教えています。
そこで2番目の言葉が出てきます。「私の軛を負いなさい」ということです。自分自身をダメだと言っているような軛を負わされる必要はなく、イエス様の弟子として生き方をじっくりと学んでみなさいと勧められるのです。そうすると解放されるのです。何から解放されるかと言えば、ファリサイ派が作り上げた虚構やそれ以上のもの、すなわち政治経済宗教的に組み上げられた体制から解放すると言われます。解放した結果、罪を野放しにして好き勝手をしてもよいと言うことではありません。だからこそ「私に学びなさい。」とイエス様が語りかけておられるのです。重荷を負っているのは、律法の軛を負っている者たちです。主にあって与えられる解放とは、軛を取り払って束縛から自由になって勝手気ままにふるまうことではありません。それは軛を取り替えることなのです。律法の軛からキリストの軛へ転換をはかることを言っています。それこそがキリスト者の生き方です。100パーセントの律法遵守で世間から尊敬されるようなファリサイ派の人たちが、自分たちの尊敬のためダメな人間を作り出しているのをイエス様は望ましいとは思いません。すべての人が神様から愛されていることをイエス様はその行いによって知らせています。それはどういうことかと言えば、律法に束縛されて苦むことから、キリストの解放の軛へ転換するならば、正しくすっきりと生きられるのです。そのことをパウロは、ガラテヤ書5章1節で、キリストが自由を得させるために、私たちを解放してくださったので、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはならないと言っています。ファリサイ派によって律法の奴隷状態に置かれていた人たちが、キリストによって奴隷から解放されて、自由に生きるように押し出されるのです。そのあり方は、ガラテヤ書5章13節にあるように、自由を得たなら自ら肉を満足させる機会とせずに、愛をもって互いに仕えるということです。キリストを信じて新しく生まれかわり、愛をもって互いに仕えることが生き方として示されております。要するキリストの軛によって愛をもって互いに仕え、真に自由になるのです。それでも前と同じように罪を犯すかもしれません。しかし、私たちは神様に罪を赦されながら人々に仕えるのです。イエス様が罪人と共に食事をしたことは、赦しがなければ成り立ちません。あなたは律法に違反しているけれども、あなたを引き上げるために私は来たのだと言うのでは到底うまくいきません。一緒に食べたり飲んだりしながら同じ地平で罪人を受け止めています。私たちは互いに受け止め赦し合い、隣人に仕える生き方に変えられることこそが大切です。
私たちは罪によって追い詰められて、互いに罪を発見する警察のような状態になっていないか、本当に罪から自由になっているかと問いかけられています。なぜなら、罪と律法からの自由は互いに罪にさいなまれるような歩みではなく、キリストによって罪を赦され、互いに罪を赦し合い、愛において互いに重荷を負い合い、仕え合う生活へと私たちを導かれているからです。罪と律法から自由になっても、罪を犯さないで済むことはありません。そこで、罪に対しておっかなびっくりとなり、疑心暗鬼になるのではなく、ゆとりをもって重荷を負いあって仕え合うようにパウロは勧めています。「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(11:30)というのです。重荷を負い苦労している者は、主にあって真の慰めと休みを与えられる上に、まったき自由を約束されます。その教えは人間を野放図にして律法を守らないようなものではありません。イエス様は私たちを新たに生かし、立たせるカを与えてくださるのです。キリスト者は自己責任を持ち自由な人間として、この世に生きることを許されるのです。私たちは、キリストに従うべく「自分の十字架を負って従え」という言葉により召されています。それは二頭の牛が軛でつながれて共に重荷を負い合ったように、キリストが私と共に軛を負って歩んで下さるのです。十字架のイエス様が共に歩んで下さいます。
(2025年8月24日 主日礼拝説教要旨)