《 マタイによる福音書 9章27節~34節 》
イエスがそこから進んで行かれると、2人の盲人が、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫びながら付いて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「私にできると信じるのか」と言われた。2人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが2人の目に触れ、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われると、2人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、誰にも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、2人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。2人が出て行くと、人々が、悪霊に取りつかれて口の利けない人をイエスのところに連れて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
「人生が二度あれば」という歌があります。父は仕事に忙しく働き詰めの人生だった。母も忙しく子育てばかりの人生だった。それを満足して年老いた。人生が二度あれば、もっと違ったように生きられたのではないかと、もっと良い人生があったのではないかと。しかし、それを満足しているもの悲しさがある…と。私たちもこの歌に倣って考えるなら、もっと違った人生があったのではないかと考えさせられます。そして人生をやり直すことができたなら、あの時こうすればよかった、こうすれば上手くいったのではないかと、考えるものです。人生は上手くいかないことや、失敗の連続です。苦労を重ねて、ようやく今にたどり着いたという実感をもつかもしれません。しかし、「人生が二度あれば」と思い、今の人生を何とかしたかったと思うのなら、そのようなとらえ方は、信仰を通して見るならば、「まだ何も見えていない状態」と言えるでしょう。
私たちは神様から、1回だけ与えられた人生を、気に入ろうと、そうでなかろうと送っています。神様の愛によってこの世に生まれ、ずっとお支えがあったのです。私たちが罪によって、闇のうちを歩いたときにも、お支えがあったのです。不満はあるかもしれません。自分の正しさを、神様の前で主張したくなるかもしれません。しかし、与えられ、支えられてきたことに変わりはなく、支え導いていただいたからこそ、今、教会に集うことができているのです。ですから、今まで不満の内に過ごしてきたことを顧み、支えてくださっていた神様の存在に気づいていく必要があるのです。
ヘレンケラーは、「苦しみは成長を生む」と言いましたが、確かに自分の過去を振り返ってみると、自分を成長させてくれた出来事は、楽しい出来事ではなく、つらい出来事が多かったと思います。以前、母から「悪い病気かもしれない」と言われたことがありました。その時初めて、母の死を意識したのですが、とても申し訳ない気持ちになりました。母は71歳です。71歳なら、まだまだ元気な人もいらっしゃいます。長生きをさせることが親孝行だと思っていたのですが、その時に気が付いたことがありました。それは、自分もいつかは死ぬということです。自分の親の死はいつかはやってくると覚悟していたのですが、自分は永遠に生きるつもりでいたのです。周りが死んでも、自分だけはこの世界に残る。永遠に。そう思っていました。
もし、親友がアメリカに移住して、離れ離れになったとしたら、それは悲しいですよね。では、その1年後、自分もアメリカに移住することになっていたら、どうだろうか。そんなに悲しくはないと思うのです。自分もそのうちにはそちらに行くのだからと。死も同じです。自分もいつかは死ぬ。同じ場所に行くと思えば、悲しいことではない。初めて人を好きになって、告白して、振られて。それはつらいですよね。初めての失恋。それから2度目の失恋、3度目の失恋だとしたら、そのショックは初めてのときほどではないと思うのです。初めて行く場所、どこに何があるのか分からない。だとしたら、目的地に着くまで不安です。一度行ったことのある場所なら、どこに何があるのか分かるので、初めてのときほど不安はありません。
一番つらいのは、初めてのことを経験しているときなのです。しかし、その経験が無駄になることは決してありません。その経験が、その後の人生の強さになります。「世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは心で感じなければならないのです」。この名言はやはり、目が見えず耳が聞こえないヘレンケラーだからこそのものだと思います。この名言でいう「目では見えない、耳では聞こえない素晴らしいもの」というのは、「思い」だとか「気持ち」、あるいは「希望」や「熱意」といったものだと思います。そして何より、信仰でしょう。ヘレンケラーは、目で見えない信仰のすばらしさを感じ取ったことでしょう。
大阪のライトハウスを創立したのは、盲人の岩橋武夫さんです。1898年、大阪の生まれでした。彼がまだ早稲田大学の理工科の二年生の時、夏休みで帰郷しました。「お母さん、今日はいやに暗いね。雨でも降るのだろうか」。外は真夏日の、かんかん照りつけている日でした。びっくりした母は、すぐさま彼を、眼科医のもとにつれていきましたが、不治の眼病だと宣告されました。そして大学在学中に、網膜剥離のために失明したのです。若き彼は、失望でカミソリ自殺をはかろうとしたが、母が早く見つけ、事なきを得ました。「お前もつらかろうけど、母さんのためにも生きておくれ」。母のことばに彼は、再び生きる望みを模索しはじめました。点字をおぼえると、点字聖書を求め、読み始めました。読み進むうちに、ヨハネによる福音書・第九章の、生まれながらの盲人の話に行き着いたのです。彼はその個所を、何度も何度も読みかえしました。そしてわかったのです。「そうか。人よりも困難を負った私は、神様が、普通の人にではなく、こんな私の上に御業をあらわしてくださるためだったのか。そう信じよう」。それからの彼は、関西学院英文科で妹と共に学び、スコットランドのエジンバラまで行って学びをつづけました。そののち、大阪盲人協会の会長に就任し、ヘレンケラーを訪ねて、来日を実現することができました。また、点字図書を刊行する「大阪ライトハウス」を設立しました。岩橋武夫さんは、失意の中から、神様のお働きを発見し、自分に対するご慈愛を感じ、御言葉を与えられました。失明を与えられた「一度きりの人生」は、しっかりと神様に受け止められていたのです。神様は、弱き者の救いを実現されるお方であったということです。人生は、神様のもとにあって、「二度」なくてよいのです。
今日の聖書の箇所では、最初に、2人の目の見えない人が癒されています。2人が「憐れんでください」と叫ぶと、イエス様は「わたしにできると信じるのか」と言って、癒されることに対しての、その人の信仰を問題にしています。単に、イエス様に頼めば肉体的に癒されるのだということでなく、信仰における癒しがあったということが大切なのです。マルコによる福音書9章14節からの話では、霊に取りつかれて、ものが言えない子を連れてきた父親が、弟子達が癒すことができなかった後にイエス様に会います。イエス様は、父親が「もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください」と言ったのを咎(とが)めました。そして、イエス様が「もしできるならと言うのか」と父親に問うと、「信じます。信仰のない私をお助けください」と叫びました。ここでも、信仰が問題にされています。最初に信仰があるか問われています。父親は問い詰められ、自分の不信仰や弱さを認めた上で、イエス様に助けを求めるのです。
次には信仰の中身が問われます。ここで癒しの根拠として問題にされている信仰は、確信ということではありません。それは弱く不確かなものです。信仰はキリストの支えによって成立するのです。イエス様は信仰を要求しているのですが、信仰は人間の力によって成り立つものではなく、神様によって与えられるものであることを教えています。したがって、口の利けない人が癒された時に、弟子たちに答えて「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」(マルコ9:29)と語られているのです。ですから、信仰のあるところで、神様の業が行なわれるのです。信仰は無限の可能性をもっています。たとえば、「からし種一粒ほどの信仰があるなら、山をさえも移すことができる」(マタイ17:20)という聖句からも明らかです。山をも動かすのですから、創造の秩序を変更しうることをあらわしています。逆に信仰のないところには、奇跡も行なわれません。
信仰では、イエス様に対する信頼が大切です。信仰は、奇跡的な業を引き出すための条件ではありません。奇跡は、それ自体に意義があるのではなく、神様の救いのしるしとなることに意味があるのです。イエス様が救い主であること、神様の救いのしるしとされることが重要なのです。イエス様は、癒す者となることだけでなく、救い主としてこの世に来られたことが告げられなければなりません。奇跡の目的は明瞭です。それは、肉体を癒すだけでなく、人間そのものが神様のものになることなのです。2人の目の見えない人の目があけられたのは、肉体の目があけられただけではなく、魂の目があけられたことが主要な目的なのです。そしてイエス様はどなたであるのかを知るのです。奇跡が救い主のしるしであるとすれば、癒された者が、救い主イエス様を証しすることにならなければ、目的は達せられないのです。癒された者が、救われた者になることが大切です。
同じことは、口の利けない人が癒された出来事についても言うことができます。当時は、口が利けないことは、悪霊の仕業であると考えられていました。口の利けない人が癒されるのは、悪霊の支配から脱することです。悪霊の支配から解放されることは、救われることであり、神様の支配の下におかれることです。したがって、口の利けない人が癒されることは、救いのしるしとして語られるのです。
信仰が重要なのは、その形態が重要だということではありません。信仰によって、何を表しているかです。イエス様に出会う者が、イエス様をどう見るか、どう信じるかということが大切なのです。イエス様がメシアであるということは、人々の目には隠されていたかもしれません。しかしイエス様に会う者は、この人は誰かということを問われるのです。イエス様の言葉と業とが、それを問わせるのです。この人は誰かというのは、この人を信頼することができるかということであって、本質的に信仰の問題なのです。奇跡において信仰が問われることから、このことが明らかにならねばならないのです。
2人の目の見えない人は、願いのとおり目が開かれました。開かれた目は、肉体だけでなく魂の目です。それが開かれると、救い主を見ることができるようになりました。今までは、民族的な視点から、主としてメシアを待ち「ダビデの子」とイエス様に呼びかけたのですが、ここに至って、はじめて信仰の目をもって、救い主を見ることができたのです。イエス様を来るべき救い主と告白しているのです。
私たちは、自分が本当は何も見えていないのだということに、ほとんど気づいていません。どうか信仰をもって、この世の救い主を見るものにしていただきたいものです。救い主に繋がって、今あることを感謝していきたいと思います。
(2025年6月22日 主日礼拝説教要旨)