《 使徒言行録 2章1節~13節 》
五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もが、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた。人々は驚き怪しんで言った。「見ろ、話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして、それぞれが生まれ故郷の言葉を聞くのだろうか。私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキレネ側の地方に住む者もいる。また、滞在中のローマ人、ユダヤ人や改宗者、クレタ人やアラビア人もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、戸惑い、「一体、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者もいた。
本日はペンテコステ礼拝であり、また花の日・子どもの日合同礼拝でファミリー礼拝です。
まず花の日・子どもの日礼拝は、6月の第2日曜日を「子どもの日」として設定したのが始まりで、その日、信者たちは花を持ち寄って、教会堂を飾って神様を礼拝しました。礼拝後に、子どもたちがその花を持って病院を訪ねて見舞ったり、警察署や消防署や各種施設を訪問したりして、普段私たちがお世話になっていることを学ばせ、同時に感謝する心を養うものでした。子どもは感謝する心が自然に生まれてくるのではなく、大人が手本を見せることで養われてきます。自分のためでなく他者のために奉仕すること、すなわち、捧げていくことが大切であることを示すのです。そのように教会の業として行っていくときに、子どもと大人はイエス様の愛の働きに参加していきます。
次にペンテコステ礼拝は、約2000年前の出来事を記念して守られます。ペンテコステの出来事とは、イエス様の死後、福音を語れなかった弟子たちが、イエス・キリストの福音を大勢の人に向かって語り始めたことをあらわしています。イエス様こそ救い主であると従ったはずの弟子たちは、イエス様が十字架にかけられたことをきっかけに、自分も命が取られるのではと心配して恐ろしくなり、この世に負けて部屋で隠れて過ごしていました。ところが神様はイエス様を復活させ、暗黒の世界の終わりを示され、弟子たちは福音を告げだしました。自分のためでなく他者のために働けるようになったのは、聖霊の働きです。イエス・キリストを語ったステファノやパウロは殺されましたが、悔いはないのです。聖霊に導かれていたからです。
聖霊が降る体験は、聖書に不思議な表現で書かれています。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」とあり、これは詩的表現とか描写と感じるかもしれませんが、個人的あるいは集団的な体験だったのでしょう。聖霊に満たされる体験は、集まっていた者たち、使徒たちにとって、大変な喜びであったのです。信仰の喜ばしい体験であるからこそ伝承されてきました。歓喜と呼べるような、体に生きた力が湧いてくるような体験であります。どうしてそんなに喜んだのでしょうか。復活の主ご自身が、弟子たちに聖霊を与えられたからです。イエス様は彼らに息をふきかけられました。世の始め、神様が人間をおつくりになったとき、土のちりで形を造り、命の息をその鼻に吹き入れられたと、聖書は説明しています。イエス様が弟子たちに、聖霊の息をふきかけられたのは、新しい人間の創造であったということができます。そのように、他者のために大胆に生きることができるようになった喜びが、弟子たちに与えられました。
聖霊の働きによって動かされる体験があります。2018年7月6日金曜日の夜から、広島県に線状降水帯が発生して、土砂災害が発生しました。道路は寸断し、教会と幼稚園は断水して、幼稚園は休園することになりました。動き出したのが、救世軍でした。キリスト教関係の団体に、ペットボトルの水を届け始めました。水は大変貴重で、飲み水に使いました。トイレの水はというと、自衛隊や小中学校で配給していたので、もらいにいくことができました。そんな時すぐに、一本の電話がありました。キリスト教関係の救援の現地事務所となったインマヌエルキリスト教会の牧師から、「ボランティアの宿泊場所として、教会を提供してほしい」という依頼の電話でした。呉市のキリスト教会は18ありましたが、毎年、市民クリスマスのために一緒に働くという、親しい関係にありました。まさしく聖霊の働きです。なので、市内の中心にある教会に声がかかりました。しかし、あいにく断水していたために、宿泊に対応することはできませんでした。結局、断水していなかった、日本キリスト教団の呉平安教会と、ナザレン教会と、リバイバルセンター教会が、ボランティアの宿泊場所となりました。
私は何をしていたかと言えば、教会員の安否確認、幼稚園家庭の安否確認などと、幼稚園の水の確保、諸行事の中止連絡など、矢継ぎ早に行いました。幼稚園教師でひとり、家の近くの道路が土砂で覆われ、車が使えず、身動きが取れなくなった職員がいたので、水を届けたりしました。1週間がたって、様々な準備が整った時に、インマヌエルキリスト教会のボランティアセンターに行くことを決めました。そこでは、朝8時にボランティアが30人ぐらい集まって、子ども讃美歌「どんなときでも」を歌って、お祈りしてスケジュールを確認して、各地に派遣されていきました。ボランティアの仕事は、おもに土砂にうずもれた家から土砂を出して、集積所へ運んでいくことでした。7月ですから、大変暑かったのです。このような力が出たのは、聖霊によるのです。困っている人を助けなくてはと、頭ではわかっていても、実際は体が動かないことがありますが、聖霊の力を受けると働くことができるのです。それは大きな喜びでありました。
聖霊によって新しい生命を与えられた人たちは、イエス様による罪のゆるしのことばを伝えました。じっとしていることができなくて、弟子たちは神様さまの働きを人々に話しました。五旬祭の日には、いろいろな国に住んでいる人たちが、エルサレムに集ってきていましたが、その人たちはそれぞれの国の言葉で、弟子たちが神様さまについて話しているのを聞きました。そして、一緒に神様を信じて、礼拝するようになったのです。いろいろな人たちに語りかけて、一致させていくのは聖霊の働きです。私たちが考えている以上の大きな力が働きました。
聖霊に満たされることが喜びであるのは、待ちに待った聖霊であるからです。みな、聖霊が与えられる約束を信じておりました。イエス様は使徒たちに向かって述べられます。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受けるからである」。このような約束を受けておりましたから、使徒たちは、熱心に祈りをあわせておりました。120人ほどの人が、ペテロを中心として心をあわせて祈ったと記されております。イエス・キリストの十字架で散らされた弟子たちは、今度はひたすら聖霊を待って備えておりました。期待して待っていいのです。希望をもって待つのです。信頼して待つのです。聖霊は、人々が待っているときに降りました。
イエス様は十字架にかかってから3日目に復活され、40日間は使徒たちに現れて、神様の国について述べられましたが、その後、昇天されました。聖霊が降った五旬祭は、イエス様が復活されてから50日目です。つまり、聖霊が降るまでの10日の期間は、約束の聖霊を待ち望むときだったのです。復活の主が約束なさったのですから、約束を信頼して待ち望んだと思います。この期間は、使徒たちにしてみれば、生前のイエス様もいなければ、復活のイエス様もおられない、さらに聖霊も降っておられない、そのような特別な10日間だったと言えるでしょう。使徒たちの特別な10日は準備のための日であり、祈りの時でありました。
聖霊が降ったのは、弟子たちが祈るとともに一つに集まっていたときでした。その時人々は、必死に祈っておりました。聖霊の降臨は待ち望んでいた人々のところに起こりました。これは、地上で人間が祈ったから自動的に現れたというものではなく、天の出来事が地に現れたということです。聖霊で満たされると、その人々は、熱い火のような思いが与えられます。聖霊で満たされる人は、いろいろな人がいるでしょう。このいろいろな人たちを見て、新しいぶどう酒に酔っていると思う人もいましたので、異言を語るような恍惚状態になったとも考えられます。しかし、それ以上に大切なのは、聖霊が一人一人にとどまったということです。そして、一人一人にとどまるということは、その一人一人を力強く立てて下さる霊に他なりません。聖霊に満たされるということは、いろいろな人に起こりますが、弱くなっている人や、暗い気持ちの人でも、聖霊の炎によって燃え上がるようになるのです。
聖霊は、私たちの中に働く、神様御自身であり、内側から私たちを動かす力であります。聖霊なる神様御自身からその力は与えられます。イエス様がこの世に人として来られ、神様が受肉した出来事を通して、神様が人間を救われることをはっきり示されました。そしてさらに、ペンテコステの日に新しい出来事が起こり、それ以前にはなかった御霊の力が与えられました。そのことによって、暗かった人や弱かった人や小さかった人は、内側から燃やされ、それぞれが抱えていた重荷が重荷でなくなったのです。今まで理解できなかったものが、理解できるようになったのです。使徒言行録の1章8節では「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」とあり、人々は大変な力を受けたことになります。証人とは、私たちは、これが真実だということがわかりますと宣べ伝えることです。イエス・キリストの真実を語ることができる人達です。証人というのは、ギリシャ語では、マルトウスです。また同時に殉教者に当たるギリシャ語も、マルトウスです。証人はいつでも殉教者となる心構えをしている人々ですから、中途半端に聖霊を受け入れ人間的な思いであろうはずがありません。聖霊は、我々に十字架の意味を知らせるものであり、私たちに救いの確信をもたらせて下さいます。
イエス・キリストの証人であるとともに、言葉の壁を乗り越えております。聖霊の言葉は、まるで自分の国の言葉を聞いているようです。創世記にあるバベルの塔の物語では、人間が傲慢になり神様によって言葉が乱されました。しかし、今や使徒たちは証人となり、命をかけて福音を述べ伝えるでしょう。聖霊に満たされるとは、聖霊の支配下におかれるということです。今まで理解できなかったものが理解できるようになると、聖霊は、人々のうちに打ち砕くことができない力を与え、一つにされたのです。そして、キリストの体である教会になっていきました。そこから人々は、それぞれの国の言葉で語りだしたのです。信心深いユダヤ人が、その様子を見て、あっけにとられてしまったといいます。聖霊に打たれて、神様のことを語り出す人は実に幸いであります。2章の41節には、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」とあります。私たちも聖霊に満たされて、力強く神様の言葉を述べ伝えていきたいと願います。
(2025年6月8日 ペンテコステ・花の日・子どもの日合同礼拝説教要旨)