《 マタイによる福音書 27章32~44節 》
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、言った。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。
受難週になりました。イエス様の歩かれた十字架へ続く道を思い起こしながら、この週を過ごしたいと思います。私は、この時期になりますと、J.S.バッハ作曲の「マタイ受難曲」を聞くことがあります。特にドイツの指揮者でカール・リヒターの1958年録音のものをよく聞きます。半世紀以上前の録音にもかかわらず、コーラスの重厚で切迫感のある雰囲気が主のご受難をよくあらわしていると思います。最近では、オーケストラの映像がYouTubeにもあがっていますから、パソコンで視聴できるので便利になりました。曲は全部で3時間以上かかり少し長いのですが、YouTubeで視聴するとドイツ語の歌詞の日本語訳が画面に映し出されますので、長時間聞いてもとても分かりやすくなっています。イエス様のご受難の様子が、音楽と共に伝えられている秀逸な作品です。
今日の聖書箇所は、イエス様の受難物語の中で頂点ともいうべき「十字架刑」に処せられるところです。すでにイエス様は一言も口を開かず、沈黙の中にローマ人とユダヤ人の暴力と嘲笑の全てを肉体で受け止めています。それは、この世の闇の力が激烈に現われる瞬間であり、イエス様の忍耐と悲しみが深刻に現われる場面です。「彼は虐げられ、苦しめられたが、口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開かなかった」という、イザヤ書の預言がイエスの肉体において実現しています。人々から捨てられ、味方と思っていた人からも捨てられ、肉体の死が必然の十字架に向かう恐怖心はいかばかりでしょうか。
イエス様は、重い木の十字架を背負ってゴルゴタへ向かわれました。頂上のゴルゴタの丘まで歩かれた道は、ヴィア・ドロローサすなわち、苦しみの道と呼ばれます。イエス様は、徹夜の取り調べと、肉を切り裂く恐るべき鞭打ちをお受けになって、身体はすっかり衰弱し、十字架を背負われても耐えきれずに倒れたのです。ローマ兵は、ちょうど通りかかったキレネ人のシモンを徴用し、イエス様の代わりに十字架を無理に担がせたのです。相手がローマの兵士となれば、断るわけにはいきません。シモンはやむを得ず、ゴルゴタの丘まで十字架を背負っていったのです。ところが、無理にイエス様の十字架を担がされ、イエス様のそばに寄り添った彼は、道すがらイエス様に触れ、後にクリスチャンになったのです。なぜなら、マルコによる福音書には「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、畑から帰って来て通りかかったので」とあり、アレクサンドロとルフォスは良く知られた信者であったことから分かります。また、ローマの信徒への手紙の中で、ルフォスとルフォスの母、つまりシモンの妻のことに触れ、「主にあって選ばれたルフォスと、その母によろしく。彼女は私の母でもあります」とあり、パウロがシモンの妻を私にとっても母と言っているので、パウロはシモンの家族と親しい関係にあったのです。つまり、シモンはパウロとつながっており、本人もクリスチャンなったことがわかります。シモンは、皆に捨てられたイエス様のうちに真理を見出し従ったのです。
ゴルゴタの丘に着くと十字架に付けられました。十字架刑を最初に考えついたのはペルシャ人で、彼らは大地を偶像オルムズ神に捧げられた聖なるものと考えました。神の所有である大地を汚さないように犯罪者を地上から上にあげたのです。ペルシャから北アフリカのカルタゴに伝えられ、ローマに伝わりました。ローマ人は謀反人、逃亡した奴隷、また最低の身分の犯罪人にのみ用いました。ローマ市民権を持った者には用いてはならなかったのです。ローマの雄弁家で政治家のキケロは、この刑を「最も残酷で、最も恐るべき処刑法」と呼んでいます。ユダヤ民族の歴史を著わしたヨセフスは、それを「あらゆる刑の死の中で、最もあわれな死」と言っています。これは典型的なローマの死刑で、ユダヤの刑法には全くないものでした。
イエス様と二人の強盗も一緒に十字架にかけられました。罪なき神の御子が、犯罪者と共に十字架にかけられたのです。こうして「その人は犯罪人の一人に数えられた」というイザヤ書の預言が成就しました。十字架にかけられた囚人に対して、胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませました。エルサレムの富裕な女性たちが、受刑者に対する憐れみのしるしとして、痛みを和らげるために与えられたのです。イエス様は、なめただけで飲もうとはされませんでした。苦痛と侮辱においてイエス様は沈黙し耐えてきましたが、それは世の罪と闇の力の攻撃をあますところなく受け入れることでした。イエス様にとって、問題は自分の苦痛の軽減ではなかったのです。父への従順において、この世の苦痛の最後までを味わい知ることであり、それを越えることによって苦痛にある者を招くためであったのです。このように、主に招かれている者はもはや、自らの苦痛において紛らわしたりせず、むしろそれを真正面から受け止めたのです。ハイデルベルク信仰問答第37問では、「『苦しみを受け』という小さな句は、何を意味していますか」と問い「主が、この世のご生涯において、ことにその終りにおいて、絶えず、全人類の罪に対する神の怒りを、身と魂とをもって受けて、その御苦しみを唯一の宥めの供え物として、我々の魂を永遠の刑罰より救い、我々のために神の御恵みと義と永遠の生命とを得て下さるにいたったことであります」と答えています。イエス様は、私たちの罪のための贖いの供え物として命を捨てられました。堂々と苦しみに耐え、苦しみをわが身に引き受け、苦しむ人のためにご自分を捧げました。
イエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きが掲げられました。これを見た通りがかりの人々は、「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と侮辱したのです。祭司長、律法学者、長老たちと一緒に、罵詈雑言を浴びせかけたのです。そして一緒に十字架につけられた強盗たちまで、同じようにイエス様を罵ったのです。このように、イエス様はユダヤ人の指導者からも民衆からも拒まれ、捨てられ、そして殺されたのです。彼らがイエス様を十字架にかけたのは、イエス様がいない方が都合がよいと考えたからでした。彼らは十字架ですべてを終わりにさせたかったので、十字架からイエス様が降りることも、神殿を3日で建てることも、現実的でないと考えたのでしょう。ではどうして何もできないイエス様を邪魔者と考えたのでしょうか。指導者たちはイエス様の振舞いと人気を妬んだからであり、また、民衆は、イエス様がローマからの独立をもたらしてくれるという解放の期待が裏切られたからでした。つまりイエス様は、指導者たちの嫉妬と民衆の怒りによって、死へと追いやられたのです。
人間の深い闇がイエス様を十字架につけたのです。律法を中心とした神殿体制は、権力を中心に硬直化していました。その中心に向かって、祭司長、律法学者、民衆の深い闇が十字架につけたのです。イエス様は、一点の罪もない神の御子です。私たちは、この罪なき神の御子のみ前に出るとき、自らの罪と汚れが白日の下に曝されるのに気付かされます。ある人々は、それによって悔い改めに導かれますが、反対に多くの人々は、イエス様に対する憎しみを募らせるのです。イエス様は生前、律法学者やファリサイ派の人々の偽善を非難攻撃され、また堕落した神殿を粛正されました。彼らはそれによって反省するどころか、かえってイエス様の抹殺を図ったのです。多くの人々は、イエス様が十字架にかけられて死んだことは認めますが、それが自分たちの罪のためとは認めようとしないのです。なぜなら、自分が罪人であることを認めたくないからです。ヨハネによる福音書にある「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」という御言葉の通り、ユダヤ人たちは自分たちの罪を正当化するために、イエス様を十字架にかけて殺したのです。自分たちこそ律法の中心、信仰の中心にいるとの自負があり、その同調圧力によって民衆の気持ちを支配し、イエス様に反逆したのです。
イエス様は言われました、「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」。イエス様を信じるということは、イエス様に従い、イエス様のために命を捨てることなのです。イエス様のために命を捨てることは、財産や地位や名誉やその他を捨て去ることです。私たちは、心に平安や喜びや希望が与えられている間はイエス様を信じ、つまり、癒しの希望があるとき、独立や自立の希望があるときは、イエス様をありがたいと思いますが、苦難を伴う真の信仰へと導かれる時、イエス様が重荷になって捨ててしまうのです。ここに人間の根源的な罪があるのです。イエス様は罪人たちによって捨てられ殺され葬り去られましたが、イエス様は罪人を捨て去ることはなさいません。なぜなら、イエス様は罪人のためにこの世に来られ、罪人の罪の贖いのために十字架に死んでくださったからなのです。神様の大いなる御業を感謝しましょう。
(2025年4月13日 主日礼拝説教要旨)