《 マタイによる福音書 7章13~14節 》
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
私が通っていた学校はキリスト教主義の学校でしたが、学校の入口に大きな門がありました。コンクリート打ちっ放しの、巨大なブロックを重ねた四角い15m程の高い門です。灰色のブロックが積み重なっているだけの門ですから、無機質な感じです。一直線の広い国道から直角に曲がると、そこに門があるのです。門をくぐり、広大な敷地内の一直線の道路を500メートル進むと、校舎がありました。この道路を跨いで建っている巨大な四角い門は、「狭き門」と名付けられておりました。マタイによる福音書の今日の聖書箇所が、門に刻まれています。「狭き門」なのですが幅は広いので、門を通るのは簡単で、車がすれ違うことができます。私はバイクで通っていましたので、いつも「狭き門」を通っていました。誰でも思うのですが、こんなに巨大で誰でも行き来することが容易な門が、どうして「狭き門」なのかわかりませんでした。7章13節に「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とありますが、巨大な「狭き門」は何を意味しているのでしょうか。現実の広い狭いではない、象徴しているものがある「狭き門」なのです。誰でも容易に通ることができますし、大型観光バスでも通れます。そこが、「狭き門」であると意識しなければ、ただの大きな門です。「狭き門」から入れといって、巨大な門を作っているのですから、門の大きさや広さが問題ではないのです。すると、門自体が問題なのか、門を通ることが問題なのか、門を通った先にあるものが問題なのかです。その意味を考えさせられました。
ノーベル文学賞作家のアンドレ・ジッドの作品に、有名な『狭き門』があります。10代で初めて読んだ時には内容は理解できませんでしたが、信仰のあり方が問題であることはわかりました。主人公が、大変若いにもかかわらず、大胆にも自分の生き方を狭い門を通るように、狭く限定しているところに魅力を感じました。そして、この考え方に影響を受けて、やがて教会に通うようになりました。そうでなければ、広いこの世界に打って出て、傍若無人に振る舞っていたと思います。この小説は、ルカによる福音書13章の「狭い戸口」をテーマに扱ったものです。登場人物の青年ジェロームは、2歳年上の従姉アリサに愛を打ち明けました。すると同じように、彼女も彼を愛していたのです。しかし、アリサは彼の愛を受け入れませんでした。アリサは悩み衰弱して死に、死後に送られてきた彼女の日記により、ジェロームは彼女の心を知るというストーリーでした。2人の恋には、障害はありませんでした。周りの人間は、むしろ好意的に2人を結び付けようとしています。しかし、アリサには愛を受け入れられない理由がありました。「まず神の国と神の義とを求めよ」との御言葉に影響され、「人間が近づいていって間違いないのは、ただ主のほうだけです」「私たちは幸福になるために生まれてきたのではない」と考えます。この世は試練の場所である、人間的な幸福を求めてはならない、人生の目的は神様への愛を貫くことである。彼女は目の前にいる人間を見ないで、天の父なる神様だけを見ていたように感じるのでした。彼女は「主よ、あなたが示したその路は狭いのです。二人並んでは通れないほど狭いのです」と思いました。彼女は青年を愛するがゆえに、犠牲となって狭き門を1人でくぐることを選びました。彼女は自分の存在が、青年が神様への愛を貫くことの邪魔になると考えたからです。『狭き門』の主人公は、この世に幸せを求めません。魂の救済すらも求めていないように見えました。ひたすらに「神様」だけを見つめています。清らかであろうとして、狭き門を1人でくぐりました。この時の門は、人生を制限された門です。大きな荷物を持ったままでは狭すぎて通れません。アリサは青年の愛情をも妨げてはならないと慮って、衰弱死していきます。自分の行いを制限すると大変苦しいのです。しかし、果たして狭き門を通るのは、衰弱死するようなものなのでしょうか。今日の聖書箇所は、「狭い門から入れ」という勧めですから、衰弱死するような生き方を選ぶのかどうかを、よく聞かなければなりません。
まずマタイは、「命に通じる門」と「滅びに通じる門」、2つの門を比較しています。これはユダヤ教的な2つの道の教えです。旧約聖書では、神様の祝福は神様の戒めの道を歩む者に約束され、呪いはその戒めから離れる者に向けられています。ルカでは、狭い門から入らない人が多く、救われる者は少ないのではないかとファリサイ派がイエス様に聞いています。「救われる者は少ないのか」の問いには、言っている本人は当然救われると思っています。なぜなら、自分の救いを知りたいのならば、単に、私は救われますかと問うはずだからです。自分は救われるであろうという安心感があるから、大所高所に立って、どうも救われる人はあまり多くなさそうで、実際少ないのではないですかと言っているのです。つまりモーセの律法、戒めの道を守るファリサイ派の自分だけは救われるのだという自負があるのです。しかし、ファリサイ派がこれだけ律法を守っているのだから、自分は救われるのだと軽々しく決定できるのでしょうか。誰が救われるかを人間が決めることはできません。神様がお決めになることです。律法を守るユダヤ人だから、自動的に神の国に入れると考えるなら間違いです。ファリサイ派にしてみれば、律法を守って模範的な信仰を送っているのに、イエス様の答えは予想外のものでした。それでは、弟子のようにいつも一緒にいる者が入れるのか、イエス様は答えておられます。「ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、私達の広場で教えを受けたのです」と、あなたがたが言ったところで、「お前達がどこの者か知らない、不義を行う者ども、皆私から立ち去れ」と言われます。つまり、ファリサイ派も含めて、イエス様が示す狭い門から入らない者は、皆知らないと言われるのです。
救いに入るには条件があるのです。まず初めはどのように入るかです。神の国に入るには、人は努力し苦労しなさいと言われます。「狭い門から入るように努めなさい」とある通りです。誰でも通れるような広い門であるならば、努力は必要ありません。私たちも、信仰告白をして教会の一員となればそれだけでよいのではなく、日々の信仰生活において闘いながら狭い門を通ることが必要なのです。イエス様は漠然と呼びかけず、あなたの信仰と実践はどうなのかと問われています。信仰生活は少しずつ進んでいくように思われますが、しっかり自分を見つめていないと後退していくのです。何もしないで止まっていると、やがてこの世に押し流されてしまいます。だから決断して、従い続けていかなければなりません。マタイ25章には10人の乙女のたとえがありますが、そのうち5人は賢く、5人は愚かであります。賢い乙女は花婿が帰ってくるのに備えて、いつ来てもよいように、灯火と油を持って照らせるような準備をしておりました。愚かな乙女は、油の準備をしませんでした。花婿が帰ってくると、用意のできている賢い乙女は婚宴の席に着き、愚かな乙女は門が閉められ入れてもらえませんでした。花婿が戻る前に、すぐに準備をしなければならなかったのに、しなかった愚かな乙女は気がついたときには手おくれになっていました。私たちも絶えず備えておくことが大切です。
一方で神様はもともと、どんな人でも救われることを望んでいます。エゼキエル書の33章11節では「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」と。神様は罪人が立ち返って救われることを望んでいます。ただし、時は迫っているのです。だから私たちは、今すぐ決断をしてイエス様に従っていきたいものです。狭い門の中に入ろうと決断したときに、速やかに入らないと後になってからでは間に合わないのです。人それぞれに神様から定められた時、決断の時があります。その時を見逃さずにいるようにしましょう。神の国を多くの人は望むけれども、門の前を通り過ぎる人が多くいます。命に至る門は狭く、その道は細く、それを見出す者は少ないのです。通り過ぎる人達は、自分の物の考え方に固執するあまり、門に神様の恵みが現れているのを見出すことができなかったのです。聴衆はイエス様を迎え一緒に生活したのですが、依然として不義な行いを続けており、真の悔い改めに導かれなかったのです。罪を犯して罪を楽しんでいる者には、イエス様は門を閉めて、御国に入ることはできません。イエス様は、神の国に入るには戦いなさいと述べているのです。
主にふさわしい、神様に喜ばれる人になるためには、狭い門から入ろうと努力することが大切なのです。狭い門から入るには、イエス・キリストから入ることに他なりません。狭い門とは、イエス・キリストと十字架を指しています。十字架の恵みを受け、私たちが従い行くことを示しています。信仰を持ってイエス様の十字架の恩恵にあずかる者は、門から入れていただけます。謙った砕けた魂でイエス様を信じるのなら、神の国の門を開いていただけるのです。
門はイエス・キリストの十字架です。普通の門ではありません。信仰をもって従う門です。そこを通るとき、初めはアリサのように苦しむこともあるでしょう。周りのものを気遣うこともあるでしょう。しかし同時に、苦労して門を通るとき、私たちは神様の大きな愛を知るでしょう。門を通った喜びが湧いてくるでしょう。そのようにイエス様は、私たちを導いてくださいます。そして門を通れるように導いてくださいます。自分だけの力では決してできません。聖霊の助けによりなされます。そして、私たちは門をくぐった後には、自分のものではなく、神様のものとして生きていくのです。神様のものとして生きていこうと決断したとき、神様は喜んで御国に受け入れてくださいます。
(2025年3月9日 主日礼拝説教要旨)