《 マタイによる福音書 6章5~15節 》
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
ここでは、「祈り」について取り上げられています。ルターの次のような言葉があります。「祈りの人でなくては本当の信者、神様の子どもとはいえない。呼吸が身体に必要なように、祈りは魂にとって大切である。呼吸が活発にできないと身体が弱るように、祈りに力がないと魂が痛み、呼吸が絶えると身体が死んでしまうように、祈りがなくなると魂は滅びる。だから、私は人々に勧めます。『祈りは人間最善の事業である』と」。祈りによって魂が生きるか死ぬかが決まるから、祈ることを大切にしなさいと勧めています。祈りを通して神様の子どもとなっていくのです。つまり、祈りにより魂が活かされ、神様と繋がるのです。
教会では礼拝や諸集会において必ず祈りが献げられます。特に祈祷会は大切にされますが、祈ること祈り合うことを特に大切にしているからです。祈祷を大切にすることは信仰の本質です。韓国の教会では祈る事が盛んであるといわれます。何年か前、韓国に出かけましたが、カトリックのミョンドン教会に出席したときに、朝7時からのミサの前に来て一人で祈っている人がたくさんおりました。日本でも、東京カテドラル聖マリア大聖堂に行ったときには、やはり早く来て一人で祈っている方がおりました。一般には、礼拝は設定された時間から始まるように考えられますが、個人的に早く来て祈っている人がおりますから、その人は形式を問わず神様を礼拝しているのです。礼拝が始まる前の時間はそれゆえに大切です。
イエス様も、節目では、必ずと言っていいほど一人で祈っておられます。イエス様は祈りを大切にされ、祈りを通して神様の御心を確かめつつ歩んでおられたのです。それではイエス様はどのように祈ったのでしょうか。聖書には、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)、「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(ルカ6:12)、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22:44)とあります。イエス様は朝早く寂しい場所で、ご自分の死を覚悟して祈りをささげました。このような壮絶な祈りが「ゲッセマネの祈り」でした。絵画ではホフマンの『ゲッセマネの祈り』の真剣な祈りを目にします。私たちはイエス様のように祈りの人でありたいと思います。振り返ってみるとき、日々の生活で、朝早く起きて祈ったり、夜通し起きて祈ったり、汗がしたたるまで祈ることがあるでしょうか。祈ることができない私たちに、父なる神様の前にぬかずき祈ることを可能にして下さったのが、イエス様の十字架の贖いの愛であります。イエス様の十字架の愛に贖われ罪の赦しに与ることなくして、私たちは神様に面と向かうことができません。
祈りは公同の祈りと密室の祈りに分けることができます。公同の祈りとは礼拝や諸集会で献げられる祈りです。祈りを献げる人は、共に祈るという性格をもっています。ですから最後にアーメンと皆で唱和するのです。この公同の祈りが真の祈りとして献げられるためには、個人の密室の祈りがなければなりません。密室の祈りは、神様の前に1対1になりますから、見栄を張ったり、偽ったりして祈ることは無意味です。偽善的な祈りは長続きしません。イエス様は、この密室における個人の祈りについて「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」(5節)と注意されています。さらに人に見てもらうため、賞賛を得るための祈りをしないようにと勧めています。会堂や大通りの角に立って偽善的な祈りをささげる律法学者たちとファリサイ派の人々のことです。だから「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(マタイ23:14)と言われるのです。このように、ユダヤ人社会の宗教的な指導者が、会堂や街角に立って敬虔深げに祈るとき、なんと信仰篤き人々であるかと尊敬されていましたが、それをイエス様は偽善者の祈りだと断定されたのです。
祈りとは神様に聞いていただくためになされるものです。しかも神様は祈りの言葉よりも、祈りを献げる人の心を見ておられます。偽善者は美しく洗練された言葉で人を感動させますが、神様は人に見られるために祈る偽りの心を見抜かれます。それは人々から賞賛を受けるための祈りであり、自分を美しく見せるための祈りであり、自分が正しいことを示すための祈りです。「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ6:5)とあるように、その祈りは神様に聞いていただくことはできないのです。イエス様は、密室の祈りを命じておられます。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父は報いてくださる」(マタイ6:6)とあります。この「奥まった自分の部屋」とはどういう所でしょうか。当時の家の隅には、食料を貯蔵する地下倉があったと言われます。奥まった部屋とは、この地下倉を指します。それは普通、部屋としては用いられない場所です。つまり、人から妨げられないで神様に祈ることができる場所を工夫せよと言うことです。場所が確保できない時には、家族が起きる前に始めれば解決されます。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)のです。ですから、イエス様が祈られたように祈れば、この問題は解決します。イタリアにおける偉大な聖人アッシジのフランシスコについて、一つのエピソードを聞いたことがあります。ベルナルドという人がフランシスコの弟子になる前、彼はこの聖人の化けの皮を剥がしてやろうという魂胆から、一夜、宿を共にしました。二人ともベッドに横になると、フランシスコは忽ち高いびきをかいて寝てしまいました。ベルナルドは、聖人と言ったところで、凡人と何の変わりがあろうと批判をしながら、彼も眠りにつきました。ところが、ベルナルドが寝静まると、フランシスコはベッドの上に起きあがって、「おお主よ、わが罪を許したまえ」と涙を流しながら祈り始めたのです。そしてついに夜明け近くまで祈り続けてからベッドにもぐり、何食わぬ顔をして朝を迎えたのでした。夜中に、目を覚ましてその様子を見ていたベルナルドは、この人こそ本当の聖人であると知って弟子入りをしたというのです。
人は祈ろうとしても、なかなか祈れないものです。長年信仰生活を送っていても、祈りは難しいことを実感させられています。祈りは個人的な願いになることが多いものです。ついつい願いばかりとなってしまい、祈りがわからないのです。そこでイエス様が祈り終えられたとき、弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と言ったので、イエス様は「主の祈り」を教えられました。それまで、弟子たちは、全く祈りを知らなかったとは考えられません。彼らはユダヤ人としての伝統的な祈りを知っていました。イエス様の主の祈りは短いのですが、私たちには思いつかない祈りです。私たちの口からは、その祈りの言葉は出てこないのです。だから大切にすべき祈りです。パウロも「同様に、″霊″も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、″霊″自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)と述べています。この言葉から、パウロも祈ることに困難を感じていたのでしょう。しかも「私たち」とありますから、祈りに困難を感じるのはパウロだけではなかったのです。祈りの言葉が出てこない、祈る習慣がないなどいろいろな事が考えられます。この難しい祈りを支えてくださるのが、神様の御霊なのです。祈りは人間の思いではなく聖霊の業です。祈りが難しいのは、祈りのテクニックの問題ではないのです。言葉や技術よりも、むしろ心の問題です。祈りが難しいと感じる理由は、私たちの心が神様から離れ、心が罪や汚れに染まっているからなのです。だから聖なる神様の御前に出るとき、畏れおののきを覚えて適切な言葉が出てこないのです。どう祈るべきかが分からなくなるのです。
この神様と私たちとの間を取り持って私たちを神様に近づけてくださる方は、イエス・キリストです。もともと罪に染まった私たちは、神様の御前に出る資格のない者ですから、神様に祈れる立場にないのです。しかし、イエス・キリストによって私たちの罪は取り去られているのです。私たちは妨げなく神様に近づいて祈ることができるのです。このことを覚えて、祈りの終わりに、「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言って祈りを結ぶのです。祈れず、祈りの内容が欲望と願いになっていた私たちは、主の祈りによって祈りの内容が整えられます。私たちは祈りを知りませんから、主の祈りを通して共に救いに与かる祈りへと変えられます。14節で赦しが書かれています。自分の過ちと人の過ちを一緒に赦す祈りが主の祈りです。藤木正三牧師は、その随想の中で「罪」について、次のように言っています。「人の罪だけ見ている時は、私たちはその人を裁いています。そしてその人の前に立っています。自分にも同じ罪があると思うに至った時は、私たちは反省しています。そして自分の前に立っています。人の罪より自分の罪の方が大きいと思うに至った時は、私たちは罪そのものを見ています。そして神の前に立っています。自分の罪が人のよりも小さく見えたり、同じ程度のものに見えている間は、まだ神の前に立っていないと注意しましょう。神の前とは、自分の罪が人の罪より必ず大きく見えるところですから」。
自分の大きな罪を認め赦していただいて、神様の御前で互いに赦されたものとして祈ることを願っています。その時神様に祈りが届き聞いていただけるでしょう。
(2025年1月26日 主日礼拝説教要旨)